滅びゆくもののデザイン: なぜ最後の一人まで救わなければならないか

Fediverseの日本語圏は、2017年4月の急激な膨張が落ち着いてからは、ゆっくりと衰退に向かっている。日本語圏に限定しなければ、switter.atやbofa.lolのような個性的な新興勢力が勃興したし、2018年5月のブラジルにおけるマストドンブームでは、mstdn.ioをはじめとする複数のインスタンスでユーザーが急増した。とはいえ、bofa.lolはすでに消滅している。

ところで、つくみずの漫画「少女終末旅行」、または、それを原作とするアニメはご覧いただけただろうか? チトによれば「生きてるって、終わりがあるってことなんだ」とのことだが、実際のストーリーはもうすこし複雑である。チトとユーリが魚を助け、建設用自律機械を爆破したように、生きているものたちは「終わり」を意図的に引き伸ばしたり、早めたりしている。

いつかはわからないが、日本語圏のFediverseはこのまま衰退し、終わっていくだろう。あるいは、すべてのConsumer Generated Mediaが終わるかもしれない。

では、終わりの場所からこれまでのできごとを振り返ったとき、思い出したいのは、人間関係の距離感を認識することが苦手だったり、他のメンバーの自尊心を満足させるための努力を怠ったりした者を、鳥に追い返したことだろうか。あるいは、苦しみながらも最後の一人まで収容しようと試行を重ねたことだろうか。

自分たちの大切な場所の秩序を乱そうとするもの、自分たちにとって不快感の原因になるものを必死に追い出したとしても、自分たちの場所、あるいは「自分たち」という集団を、永久に維持し続けることはできない。私たちを追い出す者と追い出される者に分節したとしても、それは早いか遅いかの違いにすぎない。

もう少しテクニカルな話をすると、同じインスタンス、あるいは文化圏の近いインスタンスにいる異常者に対して、インターネットをやめて治療に専念するように求める言説は多く聞かれる。しかし、インターネットの利用を制限することが、メンタルヘルスの回復につながることは稀である。例えば、不眠の症状に対しては、深夜に電子機器の利用を制限することが、改善につながる可能性がある。しかし、他の多くの症状に対しては、インターネットの利用は中立的である。

実際のところ、インターネットをやめて治療に専念するように求める言説は、単に、自分たちにとって都合のいい願望を、異常者に押し付けているにすぎない。健常者が異常者に対して、都合のいい患者像を押し付けることは傲慢であるし、それが自分たちにとって快適な空間を守るためであればなおさらである。

来るべきものが来たとき、私は、「生きるのは最高だったよね」などと笑っていられる自信はない。想像するに、そのとき私は、ただ無言で、デーモンのプロセスを停止するのではないか。

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なぜイシューとプルリクエストに応答しなければならないか、あるいは、プロプライエタリかまってちゃんをチヤホヤするのをやめろ

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

設計図共有サイトの利点と懸念

過去の記事「プラグイン機構は活発な開発者のかわりにはならない」では、マストドンをはじめとする分散SNS実装の開発者たちが、イシューとプルリクエストに十分に応答しているかどうか検討した。しかし、そもそも、イシューとプルリクエストに応答することは、何のために必要なのだろうか? あるいは、ソフトウェアをプロプライエタリにして、イシューもプルリクエストも受け付けないならば、何かまずいことがあるだろうか?

GitHubと、それに似たものたち (GitLabNotABugなど) は、Gitなどのバージョン管理システムを提供するとともに、イシューとプルリクエストを受け付ける機能も提供している。GitHubのようなものを総称するのは難しいが、ここでは仮に「設計図共有サイト」としよう。

イシューを受け付けることで、開発者は、不具合や要望を知ることができる。とんちんかんな質問が来ることもあるが、初心者がどこでつまずくかを観察するために役に立つかもしれない。

プルリクエストは、プログラミングを分業するために良い方法である。また、不具合の修正や新機能の要望も、コードを見ながら議論できるので、イシューよりも意図が明確になる。

とはいえ、設計図共有サイトを使わなくても、これらの利点を得ることは可能である。設計図共有サイトのイシューではなく、SNSをエゴサすることで、不具合と要望を知る開発者は多い。また、CrypkoCrypko先祖辿りの関係は、プロプライエタリなソフトウェアで、プルリクエストに相当することが行われた事例として見ることができる。いずれにせよ、可能であることと、手軽あるいは快適に行えることは異なる。後者のためには、設計図共有サイトにリポジトリを設置すべきだろう。

イシューとプルリクエストを受け付けることに恐怖感をおぼえるプログラマーもいるかもしれない。イシューには妄想や中傷が書き込まれるかもしれない。実際のところ、インターネットにおける言語的コミュニケーションの能力は多様であり、ユーザーにとっては単なる要望か提案にすぎないものが、繊細な開発者にとっては中傷に感じられるということはあり得る。それによって開発のモチベーションが失われることは、過去に何度も繰り返されてきたことである。そのようなユーザーからインターネットやソフトウェアの利用を取り上げることは重大な人権侵害であるが、繊細な開発者たちの置かれている立場にも同情の余地がある。

ソフトウェアの普及のアンフェアネス

ソフトウェアの普及には深刻なアンフェアネスがある。オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックである。

オールディーズエフェクトは、過去に有名になったソフトウェアが、いつまでも有名であり続ける現象である。これは、ユーザーがソフトウェアをなかなか乗り越えないことに由来する。新しいソフトウェアの使用法に習熟するには手間がかかるし、慣れるまでは違和感と戦う必要がある。そのため、ユーザーが別のソフトウェアを試すことに消極的なのは、やむを得ないところがある。

ポジティブフィードバックは、すでに普及しているソフトウェアが、さらに普及するという現象である。例えば、あるソフトウェアのユーザーが、インターネットなどを通じて他の人にもそれを勧めるという原因が考えられる。

古参のソフトウェアと新興のソフトウェアのどちらが優れているかといえば、それは中立的である。古株のソフトウェアは、改良を重ねていけばノウハウが蓄積されていくが、改良を怠れば、新興のソフトウェアにすぐに追い抜かれる。新興のソフトウェアは、先行する古いソフトウェアの成功と失敗から学ぶことができるが、細かいノウハウまでは盗むことができない。いずれにせよ、更新が停滞した古参ソフトウェアと、先行事例をサーベイしない新興ソフトウェアは、使わないほうが良いだろう。

特に、古参のソフトウェアは、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックによって圧倒的に有利な立場にあるのだから、厳しい目で見られるのは当然である。

プロプライエタリかまってちゃんと騎士団たち

では、すでに有名になったソフトウェアの更新が停滞したとき、何が起こるだろうか?

マストドン検索ポータルは、2018年11月18日ごろから動作が停止している。別の検索エンジンで「マストドン検索ポータル」を検索すると、マストドン検索ポータルを心配する意見は多く見られるものの、他の検索エンジン (realtime.userlocal.jp, tootsearch.chotto.moe, mastosearch.osa-p.net) を勧める意見はほとんど見られない。

プロプライエタリなソフトウェアでは、作者の存在がすべてである。もし更新が停止すれば、ユーザーたちは、作者とソフトウェアの行く末を心配することしかできない。マストドン検索ポータルの作者は、もともとインターネットにほとんど姿を現さない。だから、作者がかまってちゃんとして行動したわけではないけれども、ユーザーたちは、インターネットかまってちゃんを囲う騎士団のようにしか行動することができない。

オープンソースなソフトウェアで、設計図共有サイトでリポジトリを公開していれば、リポジトリのアクセス権を移譲して開発を引き継ぐという方法がある。あるいは、作者からまったく応答がないのであれば、勝手にフォークしてデプロイすることも可能である。過去の例では、Halcyonではこの両方が行われた。新都心がHalcyonの開発を放棄したとき、Niklas Poslovskiが開発を引き継ぎ、おさが非公式なフォークをデプロイした。いずれにせよ、ただ作者の復活を祈るのではなく、ユーザーの側から何らかの行動を起こすことが可能である。

ユーザーの欲望と必要の乖離

ソフトウェアに限らず、あらゆるプロダクトは、普及するためにはユーザーの欲望に訴えることが必要である。しかし、それが本当にユーザーのためになっているかどうかはわからない。あるいは、直接のユーザーにとっては利益があっても、他の人々に対しては間接的に悪影響が及ぶことがあるかもしれない。

例えば、Tootdonにはアバターをアニメーションで装飾する機能がある。これは、やっている本人は楽しいかもしれないが、他のユーザーから見れば邪魔である。また、アンフェアなユーザーレコメンデーションは、直接のユーザーがそれを望んだとしても、ソーシャルグラフの成長が不健全になり、その悪影響はFediverse全体に及ぶ。

設計図共有サイトでイシューとプルリクエストを受け付けていれば、このようなevilな機能はイシューが建てられて議論になるだろうし、より穏当な挙動になるように考慮されたプルリクエストが寄せられるだろう。しかしながら、プロプライエタリなソフトウェアは、そのような議論や懸念をシャットアウトして、意図的にオールディーズエフェクトとポジティブフィードバックを引き起こすことができる。

プロプライエタリは自意識過剰なクソ、いますぐ設計図共有サイトにリポジトリを作ってAGPLにしろ

分散SNSのインスタンスの運営にあたっては、ユーザーが運営者に感謝の意を表する機会があっても良いとは思うが、運営者の側は、コンテンツを作っているのはユーザーなのだという、謙虚な認識を持ちたいものである。

しかし、実際には、そのような相互的な関係を醸成することは難しい。運営者とユーザーが、指導者と追従者のような関係になってしまったインスタンスはいくらでもある。ユーザーが少しでも運営者に対する不満を漏らすと、別のユーザーがそれを厳しく非難することも、多くのインスタンスで見られる。

ソフトウェアの開発においても、作者とユーザーは、そのような相互的な関係を持ちたいものだ。実際に使ってくれるユーザーがいなければ、ソフトウェアは単なる記号列にすぎない。ユーザーが愚痴や不満を漏らすことが、ソフトウェアの改良のヒントになるかもしれない。例えば、Debianは、Debianに協力するための多数の方法を提示しており、「プロジェクトに関わるには様々な方法があり、 Debian開発者であることを要求するのはそのごく一部に過ぎません」と表明している。

しかし、プロプライエタリなソフトウェアは、そのような相互的な関係を断ち切る。ソフトウェアの作者は指導者として振る舞うことを望まないかもしれないが、ユーザーたちは追従者として振る舞うことしかできない。

ソフトウェアの普及におけるオールディーズエフェクトとポジティブフィードバックは、もしソフトウェアの更新が停止したとしても、過去に有名になったソフトウェアがいつまでも使い続けられることを意味する。そのとき、プロプライエタリなソフトウェアは、たくさんの無力なユーザーたちを抱えたまま、ただ朽ちていくだけである。しかし、設計図共有サイトにリポジトリを持っていれば、Halcyonの例で見たように、そのような事態に対応する複数の方法が用意されている。

作者たちは何を恐れているのだろう? マストドンに関係するプロプライエタリなソフトウェアの作者には、フリーランスのプログラマーが少なくない。彼らは、自分のソフトウェアが100 %自分の能力の証明であることを顧客に説明するために、他の開発者とユーザーの介入を拒んでいるのだろうか。

もともと有料なソフトウェアならともかく、無料のソフトウェアをプロプライエタリにするのは、本当にやめた方がいい。

制度的苦痛と根源的苦痛

異齢愛が異常とされない社会では、異齢セックスが行われても児は苦痛ではないし、性嫌悪者にもならないという仮説を持っている。ただし、この仮説には穴があって、家父長制なり男尊女卑が社会的規範である環境において、女性たちが苦痛を感じなかったかというと、そんなわけはないだろうというのがある。

いずれにせよ、制度的な苦痛と根源的な苦痛という概念を得たことは、広範な応用が期待できる。例えば、インターネットには、キリスト教が主流でない社会においてキリスト教の家庭に生まれたというだけで、親を一生恨んでる人もいる。これを制度的な苦痛と表現することで、本人の苦痛は真正のものであることに留意しつつ、キリスト教の側だけに責任があるわけではないことを含意することができる。

あるいは、インターネットにおける政治的な発言の99 %は、制度的な苦痛の表明である、というアフォリズムも可能である。このブログでは、かつて同じことをマジョリベーションという用語で説明したが、「制度的な苦痛」という用語であれば、より穏当に表現することができるだろう。

ところで、根源的苦痛と制度的苦痛を区別することは可能だろうか? 実際のところ、根源的苦痛は存在せず、あらゆる苦痛は制度的苦痛であるかもしれない。ただし、あまりに普遍的であるために変革することを想像することが難しい制度と、当座の権力者によって人工的に維持されている制度を区別することは可能である。私たちが従属している制度と、その制度によってもたらされる (あるいは、その制度の周縁における軋轢から生じる) 苦痛が、どの程度まで普遍的であるかは、制度の内側にいる者であっても、判断することが可能だろう。

性嫌悪者という見えないペドフィリア

性嫌悪者を私たちから見えにくくしている要因は複数ある。例えば、数が多いこと、内実が多様であることである。

寡聞にして研究成果を引用することができないが、潜在的な性嫌悪者は女性の過半数を占めているように思われる。しかしながら、旧世代の女性たちは、「亭主元気で留守が良い」といった軽薄なキャッチコピーに代弁されつつ、家事とセックスに黙って耐えてきた。若い女性たちにとっては、恋愛と結婚が社会の多数派ではなくなった時代において、あえてそれらを選択したという負い目から、声を上げにくくなっている。

実際のところ、男女を問わず若年層の平均的な労働者たちにとって、自己肯定感を得ることはますます困難になっている。女性たちが、セックスと引き換えに愛情を得るという古いロールモデルに一縷の望みをかけたとしても、それを責めることはできない。

これに対して、インターネットでは、性的規範をめぐる特定の勢力が、実態以上に可視化されがちである。例えば、性に開放的な、またはそれを演じている女性たちは、インターネットにおいて過度に可視化されている。インターネットにおいて、性はコンテンツになるからである。

フェミニスト、あるいはインターネットを手にした女性たちのなかで、特に観測されやすいのは、萌えフォビアとミサンドリストばかりである。インターネットの男性たちは、自分たちが女性たちに攻撃されているとの思い込みから、過度な反撃と嘲笑をしがちであるし、その過程で、攻撃者たちのコンテンツは批判的な意図で拡散されていく。また、対称的に、萌えはテレビや広告などのメディアを通して流通するものであるため、過度に可視化されやすいという性質がある。

インターネットの特定界隈におけるペドフィリアたちは、挑発と計略を用いて、自分たちを可視化しようと試みてきた。声かけ展はもっとも成功した例であり、LGBTPZNもある程度の戦果をあげた。

実際のところ、性嫌悪者の苦痛とペドフィリアの苦痛は、きわめて性質が似ている。しかし、インターネットにおける性嫌悪者たちは、素朴な攻撃性の発露にとどまりすぎている。これに対して、ペドフィリアたちは、冷笑的な挑発と計略をやめて、もっと素朴にその苦痛を表明すべきなのかもしれない。

性嫌悪者とペドフィリアが同盟し、その手法を交換することは可能だろうか? 実のところ、これはそう簡単ではないかもしれない。性嫌悪者たちは、歴史的に女性たちが奪われてきた声を、インターネットで回復しようとしているのかもしれない。あるいは、挑発と計略は子供たちが得意とするものであり、ペドフィリアがそれを愛するのは自然なことかもしれない。

いずれにせよ、私たちは、使える手法はすべて使うべきである。そのために必要なのは、固定されたスタイルを捨てて、新しいスタイルを模索することを愛するという、挑戦者の精神である。

かながわのくにのおおきみ、かわうちならはです!

インターネットのみなさん、こんにちは! わたしは、かながわのくにのおおきみ、かわうちならはです。このとうこうでは、かながわのくにのおおきみのしごとについてと、おおきみになったりゆうを、せつめいします。

かながわのくにはどこにある?

かながわのくには、かながわほんちょう、こうがや、あおきを、りょうゆうしています。きたには、つるみと、こやすがあります。みなみには、よこはまが、あります。

かながわのくにのちゅうしんは、ごんげんやまの、ごしょです。ごしょは、まだ、つくっているとちゅうです。さとだいりとして、かながわちくセンターを、つかっています。

かながわのくにのこよみ

かながわのくににも、げんごうがあります。いまのげんごうは、プレロマ、です。これは、ギリシャのことばで、ぜんのうせい、といういみです。かながわのくにのひとびとが、おもいのままに、のぞみをかなえられますように、という、ねがいがこめられています。

かながわのくにのげんごうは、Unixエポックから、224びょうたつたびに、かわります。そのため、げんごうのけいさんをするのが、かんたんです。

かながわのくにのもじ

かながわのくにのもじは、ひらがなと、カタカナです。かんじは、できるだけ、つかいません。かんじは、せんがこまかくてみづらいし、おぼえるのがたいへんです。

ちゅうごくのひとが、ちゅうごくのことばをはなすときは、トーン (声調) で、ことばをくべつします。それを、かなでかくと、どうおんいぎごがおおくて、たいへんです。わのひとびとが、ちゅうごくのふるいことばをもじでかくときは、かんじをつかいます。かんじをつかえば、どうおんいぎごを、くべつできます。でも、かんじは、めんどうです。

かながわのくにでは、ふるいちゅうごくからきたことばは、あまり、つかいません。かなでかくのに、むいていないからです。かわりに、えいごや、ヨーロッパのことばは、よくつかいます。ヨーロッパのことばは、トーンがじゅうようでないので、かなでかいても、うまくくべつできます。

わのひとびととのかかわり

かながわのくにでは、日本国のせいりつを、みとめていません。わのひとびとは、たくさんのくにやせいりょくに、わかれて、くらしています。かながわのくにも、そのひとつです。

かながわのくには、くにのさかいに、ほりやかきねのような、きびしいくぎりは、つくっていません。わのひとびとも、もっととおいくにのひとびとも、じゆうに、たちいることができます。

えどのおおきみは、えどのまちの、おおてまちからいちがやくらいまでを、しはいしていると、みられています。わのひとびとのすべてを、しはいしているわけでは、なさそうです。えどには、ぎかいとやくしょがおかれていて、えどのおおきみのもとで、はたらいています。

どうしておおきみになったか

かつては、かながわのくににおおきみはおらず、ひとびとは、かってきままにくらしていました。

わたしがおおきみになったのは、えどのおおきみが、ふがいないからというのがあります。

えどのおおきみは、かつて、おきもちをあらわして、おおきみのくらいを、ゆずることになりました。これは、おおきみがしぬときに、おおげさなぎしきがおこなわれたり、ひとびとがえんりょして、やりたいことができなったりすることを、さけるためでした。

しかし、えどのおやくしょは、おおきみのおきもちを、あまり、くんでいないように、おもいます。えどのおやくしょは、おおきみがかわるとき、とおかかんのやすみをもうけることを、きめました。えどのおやくしょと、それにつきしたがうひとびとは、ひとをはたらかせることが、だいすきです。ひとびとが、とおかかんのおやすみを、すんなりもらえるとは、おもえません。じっさい、おやすみをそのとおかかんにまとめて、もとからあったおやすみは、そのぶん、へらされてしまいます。

えどのおやくしょと、それにつきしたがうひとびとは、ますます、ゼノフォビックなふんいきに、のみこまれつつあります。たとえば、入局管理局は、難民たちをすくうことをうったえるメッセージを、あたかも、がいこくじんがふざけてらくがきをしたかのように、ツイートしました。

ですから、えどのおやくしょがきめる、あたらしいげんごうは、右傾エンタメと感動ポルノをあわせたような、ひどいものになるに、きまっています。もちろん、あたらしいげんごうは、まだあきらかにされていないので、おもったよりもよいげんごうがででくるという、かのうせいは、あります。それならそれで、いつまでももったいぶっていないで、はやく、あきらかにすべきでしょう。

そして、とおかかんのやすみのあいだに、えどのほうそうきょくがながすテレビは、これもまた、ひどいものになるでしょう。えどのおおきみとおやくしょにつきしたがうひとびとは、まんぞくするかもしれませんが、そうでないわのひとびとは、すっかり、きおちしてしまうでしょう。

ですから、かながわのくにでは、えどのおおきみとおやくしょにしたがわず、どくじのげんごうを、つかうことにしました。ここんとうざいのことばをしらべて、できるだけよいことばを、えらびます。そのために、かながわのくにのはじめのげんごうは、プレロマに、なりました。

かながわのくにには、ほうそうきょくはありませんが、ぶんさんSNSのインスタンスがあります。3.distsn.org7.distsn.org です。ここでは、さまざまなひとたちが、じぶんのいいたいことを、いうことができます。ほかのインスタンスともつながって、さまざまないけんやかんがえを、みることができます。

わのひとびとは、たくさんのくにやせいりょくに、わかれて、くらしています。えどのおおきみとおやくしょに、つきしたがうひとはおおいですが、そのさきゆきは、あまり、きもちのいいものではないかもしれません。かながわのくには、ちいさなくにですが、ひとびとが、おもいのままに、のぞみをかなえられるように、けついをあらたにしております。

ユーザーディスカバリーメソッドは遍在し、そのアンフェアネスからは決して逃れられない

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

#mmt18 Mastodon Meetup at Tokyo参加報告 | LTLこそがMastodonの本質なのか?を読んだ。このsenookenの記事では、「おすすめユーザー」機能の導入に反対しているように見える。私の立場はある意味では中立的で、フェアな「おすすめユーザー」なら導入するべきであるし、アンフェアな「おすすめユーザー」ならば導入しないほうがいい、という意見である。

レコメンデーション・フェアネスというアイディアは、当初は文字通り、ユーザーレコメンデーションのフェアネスを意味していた。しかし、現在は、ユーザーディスカバリーメソッドのフェアネスとして理解すべきだと考えている。ユーザーディスカバリーメソッドは、未知のユーザーを発見するために利用できるすべてのものである。「おすすめユーザー」パネルのようなわかりやすい形をしたもののほかにも、例えば、マストドンのタイムライン (ホーム、連合、ローカル) も、ユーザーディスカバリーメソッドである。また、自動化されていない、人間が他のユーザーを推挙する行為、senookenの言う「自分が信頼できること、所属するコミュニティなどから口コミ、人づてにたどっていく」行為も、ユーザーディスカバリーメソッドである。だとすれば、これまで挙げてきたすべてのユーザーディスカバリーメソッドについて、アンフェアネスを検討する必要がある。

人間が他のユーザーを推挙する行為のフェアネスは、結局のところ、その人間の心がけ次第である。とはいえ、人間たちの行動を、統計を通して理解することはできる。過去に#followfridayハッシュタグを分析したことがあるので、改めてそれを見てみよう。

#followfridayハッシュタグにおいても、すでに多くのフォロワーを獲得している、悪く言えばインターネットセレブたちが、推挙されやすい傾向にあることがわかった。しかしながら、here is a list of people that I follow and have fewer than 100 followersという定型句に象徴されるように、意図的にフェアなレコメンデーションを行おうとする運動も見られた。両者を相乗平均すると、アンフェアネス値は穏当な値になる。

英語圏においては、リベラルなアーリーアダプターたちが、here is a list of people that I follow and have fewer than 100 followersのような運動を始めることがある。日本語圏では、このような動きはあまり期待できない。「所属するコミュニティなどから口コミ、人づてにたどっていく」という行動が普及してしまった世界では、そのような人の輪から外れた人が、永遠に安息の地にたどりつくことができない。「永遠に」は言い過ぎにしても、スタートラインをかなり遠くに設定されてしまうことだろう。

人間によるアンフェアなユーザーディスカバリーメソッドを避けることができない状況においては、自動化されたフェアなユーザーレコメンデーションを導入することで、この状況を緩和する必要がある。もちろん、自動化された、なおかつアンフェアなユーザーレコメンデーションは最悪である。自動化も悪くないということを人間たちに納得してもらうには、まだまだ長い時間が必要になりそうだ。

プラグイン機構は活発な開発者のかわりにはならない

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

#mmt18 Mastodon Meetup at Tokyo参加報告 | LTLこそがMastodonの本質なのか?を読んだ。このsenookenの記事では、マストドンにプラグイン機構を導入することを主張している。この意見に対して、私は、半分賛成、半分反対である。マストドンの開発体制に闇があるという課題の認識は共通するが、その解決策がプラグイン機構であるとは思えない。

マストドンの開発体制は妥当か?

senookenの記事では、「友達と遊べなくて寂しくなった」というGargronの発言が引かれている。私も、この発言を見たときには、不吉なものを感じた。ドワンゴからの退職を水面下で進めていた時期のぬるかるを連想させたからだ。

とはいえ、マストドンの開発そのものは、いまのところ、そこまで悪い兆候は見られない。イシューは無視されるが、これはマストドンではいつものことで、これまでずっとそれでうまくやってきた。プルリクエストの消化は、それに比べれば順調だ。一例を挙げれば、(NFSWにかかわらず) すべての画像を非表示にする設定という日本発のプルリクエストは、速やかに受理されている。

他の不安材料も挙げてみよう。プロフィールで紹介するという機能はどうだろうか? 私はこの機能に対しては「Endorsement is some kind of worship or flattery.」と猛反発したが、ここでは別の観点から見てみたい。この機能は、Gargronがユーザープロフィールページのレイアウトを変更しようとする過程で、画面上の空間を有効利用するために導入されたという経緯がある。これは、新機能を導入する動機としてはちょっと軽率である。悲観的に見れば、マストドンにはすでに本質的な新機能を導入する余地がなく、開発が自己目的化しているようにも見える。

まだ言い足りないこともある。マストドンの公式ドキュメントが https://source.joinmastodon.org/mastodon/docs に移動したとき、List of appsページは失われてしまった。かわりに https://joinmastodon.org/apps が導入されたが、掲載されているアプリは少なく、選考の基準は不明瞭である。別のアプリ一覧へのリンクを追加する提案と、Whalebirdを追加する提案は、長らく放置されている。マストドン本体は良いとしても、関連するウェブサイトにまでは手が回っていないのかもしれない。

最後に。GargronはGalleryという、やや大きすぎる名前のソフトウェアを公開した。これは機能的には#tusktowallとほとんど重複する。Gargronが先行事例をサーベイせずに再発明したことには、率直に言って失望されられた。もしGargronがtusktowallへのリンクをツイートしていれば、tusktowallのアクセスは飛躍的に増加したかもしれない。しかし、私たちの世界はそちらの方向に進むことができなかった。

老婆心ながら、Gargronは信頼できる副官に権限を移譲すべき状況にあるように見える。マストドン公式ブログはTremaine Friskeに移譲されているが、更新が停滞している。山岸和利はマストドン公式リポジトリのコミット権限を持っているが、その行動はあまり野心的ではない。あるいは、新都心に https://source.joinmastodon.org/mastodon/joinmastodon のコミット権限を与えるのはどうだろうか? 新都心は、joinmastodon.org の日本語訳と、マストドン日本語ウィキの開設を行った人物であり、過去の実績から言えば適任に思われる。さらにトリッキーな案としては、glitch-socの開発者たちを取り込み、代表者にマストドン本体のコミット権限を与えるのも良いかもしれない。

マストドンの開発体制における、より深刻な問題は、マストドンのソフトウェアが大規模化しているのに対して、プログラマーが不足していることである。前述の#8569の例を見る限り、プルリクエストを作る人がいれば、それが受理されることは難しくない。しかし、#2828から#8569までには16ヶ月を要した。需要が多い機能であっても、それを実装するプログラマーは足りていない。ぬるかるはかつて、インスタンスを建てる労力をマストドンのクライアントを作ることに振り分けてほしいという発言をしていた。私が見る限り、本当に必要なのは、インスタンスを建てることでも、クライアントを作ることでもなく、マストドン本体にプルリクエストを出すことである。

PleromaとMisskeyの開発体制

senookenはGNU socialのユーザーの立場から、マストドンをそれと比較している。私は、長らくfreezepeach.xyzsocial.pzn.lgbtのユーザーではあったが、GNU socialの内部構造には詳しくない。むしろ、PleromaとMisskeyのコードに触る機会があり、小規模なプルリクエストをいくつか通している。このようなバックグラウンドの違いからすると、senookenにとってプラグイン機構が魅力的であることと、私にとってそうでないことは、自然ななりゆきに思える。

Pleromaは小規模なプロジェクトであり、プログラマーの数は常に不足している。新機能の導入に慎重であることと、コードをミニマムに保つ努力をすることで、この弱点を補っている。

Pleromaのマージリクエスト (GitLabではプルリクエストことをこう呼ぶ) の受理は迅速である。これはkaniiniというコミッターの存在が大きい。Pleromaの作者はlainであるが、lainは日曜プログラマーであり、Pleromaに割く時間は少ない。大規模な新機能や、長期的な構想は、lainが決定する。kaniiniは小規模なマージリクエストを積極的に受理している。kaniiniの行動はやや拙速であり、もちろんコードをレビューしてからマージリクエストを受理しているものの、稀にその行動がlainによってリバートされることがある。(例: Markdownの導入そのリバート。)

Pleromaが迅速にマージリクエストを受理することと、インスタンスの設定でOn/Offできる機能が多いことは、結果的に、プラグイン機構を発明しているようにも見える。あるインスタンスが独自機能を実装したとき、それをマージリクエストにまとめれば、Pleroma本体にマージされることは十分に期待できる。インスタンスの設定でOn/Offを切り替えられるようにしておき、デフォルトをOffにすれば、他のインスタンスや開発者も受け入れやすい。

lainが長期的な方針を決定し、kaniiniが当座の処置を迅速に進めることは、これまでのところ、良い分業として機能している。マストドン日本語ウィキにおける新都心と嗤民の関係も、これに似ている。

Misskeyは作者であるsyuiloが十分に強く、補助的な人員を必要としていない。村上はそれに近い立場にいるが、もっぱらmisskey.xyzのインフラを担当している。それでいて、開発の活発さは、毎日のように新しいマイナーバージョンが発行されるほどである。他の開発者によるプルリクエストも迅速に受理される。

プラグイン機構は何を解決するか?

senookenの記事が主張するように、diaspora*のプロトコルに対応するプラグインは魅力的だ。しかし、そのプラグインの開発は、これからも活発に行われるだろうか? プラグイン機構は開発の停滞という問題を分割するし、それはそれで良いことではあるのだが、私たちは、分割された複数の問題に改めて向き合う必要がある。

私の観測範囲から見た結論としては、開発の停滞と独善に対する最良の対策は、信頼できる副官に権限を移譲することである。現時点では、Gargronはそれに失敗しているし、syuiloはそれを必要としていない。いずれにせよ、その結果、あんのたんやNCLS (現在は別の名前で活動しているらしい) がマストドンのコミット権限を得ることになってもかまわない。もしマストドンがevilになったとしても、他に競合する実装はいくらでもある。もちろん、GNU socialも、重要な選択肢の一つだ。