性嫌悪者が性的身体を見せられない権利は、オタクの言論の自由よりも重い

インターネットでは、性嫌悪者による苦痛の訴えを、さまざまな形式で見ることができる。そのなかには、公共の場所から性的身体の図像を撤去することを求めるものもあれば、単に苦痛を表明するだけのものもある。

この種の苦痛は明らかに実在する苦痛である。言葉のうえだけで創作されたものではない。

ところで、LGBTPZNの中核となる問題意識は、法と倫理によって徹底的に自分自身を破壊された者が、なおも何らかの倫理や価値観に対して誠実であることは可能だろうか?、と表現されてきた。性嫌悪者の置かれている状況は、これにきわめて近い。差し迫った苦痛をもたらすものを見せられ続けてきた者が、それを見せようとしてきた者と、何らかの倫理や価値観を共有することは可能だろうか? あるいは、私たちがそれを要求することは妥当だろうか?

性嫌悪者が自らの主張を立証するには、苦痛を表明すればそれで十分である。インターネットで論をやっていくことや、他者にとって共感しやすい主張を構成することまで、要求するべきではない。

歴史的に見れば、さまざまなメディアと広告を通して、見たくもないバラエティやスポーツを見せられてきた歴史を、オタクは共有してきたはずだ。個室であればテレビの電源を切ればよいが、例えば家庭の食卓であれば、どうだろうか? だとすれば、見たくもない性的身体を見せられたという性嫌悪者の主張とは、むしろ親和性があるはずである。

問題を放送協会に限定すれば、ノーベル賞を解説する番組に、椎名林檎や吉田輝星が出演したら、なんとなく嫌である。このような主張であれば、より多くの読者に受け入れられるだろう。

いくらインターネットのディベートで優位に立ったところで、本当に敗北しているのは、性的身体の愛好者たちである。私たちは、他のすべての偽同盟者たちを捨てて、性嫌悪者と連帯すべきだ。

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空から性的指向が降ってきて、世界は変わった

2017年4月のミュンヒハウゼン騒動と、2018年4月の牧村朝子騒動。これらに挟まれた長い空白のうちに、忘れ去られた巨大な文書があった。

マサキチトセ, ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された”性的指向”と”性的嗜好”の違い。2017年10月、LGBTPZNという用語に直接は言及していないがゆえに、LGBTPZN支持者からはいつしか忘れられた文書である。しかし、「合意」あるいは「同意」がLGTPZNアンチたちのスローガンになる以前は、性的指向と嗜好という同音異義語の組が、LGBTとPZNを隔てる原理であると信じられていた。

マサキチトセの主張は、LGBTPZNに深く関連する部分だけを抜き出せば、性的指向は同性愛者を差別するための中心的な概念であったがゆえに、それを反差別のために意味を反転させる必要があったということだ。

では、性的指向がLGBTに対する差別の中心的な概念であったとき、LGBTとPZNは現在とは逆の立場にあったのだろうか? 例えば、前世紀にLGBTが公然と差別されていたとき、いわゆるロリコンブームや少女買春ツアーのような形で、PZNが公然と許容されていたというような歴史認識は可能だろうか? 先に断っておくと、私はこの記事にいくつかの問いをメモするだけで、結論を語れるようになるのはだいぶ先になりそうだ。

あるいは、LGBTPZNアンチのあいだでも合意か同意か表記が一定しないあの概念について、マサキチトセが性的指向について行ったような広範な検討を加えることは可能だろうか? 明らかに、No Means NoとYes Means Yesという標語に象徴される、一連の議論を参照する必要があるだろう。別の例を挙げれば、わが国のインターネットでは、発達障害者は「合意」のシグナルを理解することができず、自由恋愛から締め出されているのではないかといった議論がなされている。

もし合意あるいは同意と呼ばれるものが成立し得るとしたら、当事者たちはどのようにして、それを決断しているのだろうか? それは選好の問題であり、一例として単純化して言えば、ある女性がある男性とのセックスには同意し、別の男性とのセックスには同意しないとすれば、そこにはどのような決定のプロセスがあるのだろうか? ナンパ術や恋愛工学としても知られるある種の技法を用いて、選好のプロセスの一部をバイパスすることは、実際に効果があるのだろうか? もし効果があるとすれば、それはどこまで許容されるべきだろうか? あるいは、ある女性が、白人男性とはセックスするが、黒人男性とはセックスしないという選好を露骨に繰り返したら、何か倫理的な問題が発生するだろうか? 正規雇用者と非正規雇用者だったら? サッカー部とオタクだったら?

ジェンダー論がガラスの天井を打ち破りつつある現代においても、セックスを論としてやっていくには人類は準備不足であるように思われる。例えば、ポルノ、売春、性犯罪についての倫理的な問題は、十分に整理されていないという印象を持っている。私たちの社会において「正常」とされる人々がどのように恋愛やセックスを行っているかも、十分に解明されていない。ましてや、LGBTあるいはPZNの性、特にジェンダーではなくセックスを解明することは、より困難が大きいと想像される。

あるいは、同齢愛者と異齢愛者の実態、両者の社会的な許容の度合い、ないしは後者に対する差別の存在といった問題は、まだ認知さえされていない段階であろう。年齢は身体的価値と社会的地位の両方に深く関係し、なおかつ、それらの理解は地域や年代によって異なる。

わが国における平均的な異性愛者にとって、恋愛とセックスによって得られる満足は、いよいよ縮小の一途をたどっている。自分自身の性的身体あるいはセックスを肯定的に理解している女性も少なくはないが、平均的な女性にとって、セックスは何かをあきらめることにほかならない。恋愛とセックスによって得られるものは、男性がいかに幼稚で自分勝手であるかを再確認することだけである。一方、男性にとってみれば、デートには生活費を圧倒するほどの出費が必要であり、その間ずっと相手の機嫌をうかがって過ごし、数回のあまり快適とはいえないセックスを得たのち、何の前触れなく捨てられる。出産と育児についてはさらに状況は悪化しており、必要な出費は平均的な共働き家庭ですら困難である。女性たちはそのような困難を最初からあきらめるか、安定かつ高収入な男性を捕まえようと絶望的な努力を重ねるかの選択を迫られている。そして、女性たちには漠然とした孤独感が、男性たちには行き場のない性欲だけが残される。

異性愛者の性ですら、解放されていないどころか、状況は悪くなる一方である。ならば、どのようにして、LGBTやPZNを救うことができるだろうか?

何も分からない。私たちは雰囲気で性をやっている。では、「雰囲気」とは何だろう? 私たちの社会における性的規範だろうか? あるいは、私たちは、「私たちの社会」と呼べるような単独の実体を共有しているのだろうか?

分かるのは、チンコをこすると気持ちいいということだけ。しかし、チンコをこするだけでは射精は起こらない。性的な欲求を満たすためには何らかの精神的な充足が必要であり、それはポルノであったり、恋人であったり、私たちから見れば奇異に思われる何かであったりする。

8番目のアルファベットは、あなたではなくポーランドのホモフォビアだ

2016年9月26日と9月27日の間には、今にして思えば、回復不可能な断絶があった。LGBTPZNポータルは「8番目のアルファベットは、あなたです。」という楽観的な標語を掲げ、「現在は、LGBTPZNはアクロニムではなく、多様な性を象徴するシンボルであると考えられています。」という説明を付け加えた。

しかし、これらの進歩的な標語は罠であり、その真意は、「8番目のアルファベットは、ホモフォビアに対してすら開かれています。」および「ポーランドのLGBTPZNと、わが国のLGBTPZNは、本質的には連帯可能であると考えられています。」を導くためにあった。日本におけるLGBTPZN支持者から「ポーランドのLGBTPZN」と誤って呼ばれている、LGBTPZNをLGBTに対する中傷として使用する語法は、日本におけるLGBTPZNの精神とは両立し得ない。しかしながら、LGBTPZNポータルの作者 (もちろんそれは私自身である) は、それらをアクロバティックに結合してみせた。「8番目のアルファベットは、あなたです。」という標語は、このロジックを導くために逆算して作り出されたものである。

LGBTPZNポータルは徹底したナンセンスであり、他のLGBTPZN支持者に対する裏切りですらある。しかしながら、その起源に関わらず、「8番目のアルファベットは、あなたです。」や「LGBTPZNはアクロニムではなく、多様な性を象徴するシンボルである」といった進歩主義的な標語を、アクチュアルな主張として読み直すことは自由である。

LGBTPZNはLGBTに対する攻撃性を肯定すべきだ

LGBTPZNのLGBTに対する見解は、欺瞞と矛盾に満ちている。砂鉄とミュンヒハウゼンという巨大なインフルエンサーは、いずれも、LGBTに対する攻撃の手段としてLGBTPZNという用語を利用した。これは、LGBTPZNという用語が普及するためには、LGBTに対する攻撃性が不可欠であったことをも意味する。

2016年9月26日までさかのぼり、当時の「古参」たちの発言を振り返ると、LGBTPZNの「悪意」ないしは「錯乱」とは、LGBTPZNがLGBTに対する攻撃だと誤解されることによって、LGBTPZNという用語が人口に膾炙することを意図していたように思われる。LGBTPZNのLGBTに対する攻撃性という問題を考えるにあたって、このような態度は奇妙な二重性を持つ。LGBTPZNの古参たちは、LGBTに対する悪感情を持っていないにもかかわらず、そのような第三者を利用することで、自分たちの目的を達成しようとしていたからである。

砂鉄とミュンヒハウゼンの出現によって、このような目的は達せられたのであるから、LGBTPZN支持者たちはこれらのインフルエンサーと距離を置こうとするべきではない。本来ならば、彼らをねぎらい、表彰する義務がある。そして、そのためには、自分自身がLGBTに対して悪感情を持っているかどうかにかかわらず、LGBTに対する攻撃性を認めるべきだ。

その点では、あおいんがLGBTに対する加害性を自覚せよと迫ったことは、結果的には正しかったように思われる。ただし、あおいんのLGBT観はあまりにも権威主義的であり、例えば一般社団法人としての形式を整えるといった古典主義的な運動のあり方を、素朴に信頼していた。これは、牧村朝子のペドフィリア観があまりにも迎合的であり、マジョリティにとって安全で安心なペドフィリアのみを賛美したことと親和的である。

マジョリティにとって都合の良いマイノリティばかりが称揚され、マイノリティ自身もそれを内面化しがちであるという古典的な問題に対して、私たちはあまりにも無力である。正式な団体を組織して、マジョリティから見た交渉の窓口を限定する (そして、その他の可能性を排除する) こと。あるいは、仲間との絆と不断の努力によって、自分たちの有害な欲望を克服すること。マジョリティは私たちにさまざまな都合を押し付ける。そればかりか、良いマイノリティと悪いマイノリティを分断するかのような言動を、誰にも妨げられることなく遂行することができる。良いマイノリティを「当事者」、悪いマイノリティを「運動家」と一方的に呼称し、それによって素朴なステレオタイプを維持したいという欲求に抗うことは難しい。

しかしながら、LGBTはLGBTという用語を広めるにあたって、マジョリティのエゴを巧みに利用してきた。企業にとっては、使用しても安全であることが保証されている認証シール付きの用語として。自治体にとっては、予算をかけずに先進性をアピールできるブランド戦略の手段として。マジョリティはLGBTをさまざまな思惑で利用してきたけれども、LGBTもまた、マジョリティのエゴを操って巧みに政治的なプレゼンスを獲得してきた歴史がある。

ということは、砂鉄がLGBTを「特権階級」と呼び、ミュンヒハウゼンがLGBTを「人権屋」と罵倒したことは、LGBTにとっては良い傾向であるように思われる。日本におけるLGBTの運動は、ようやく、マジョリティーにとって都合の良いだけの存在ではなくなったということだ。

フラットデザイン化された神と、そのエバンジェリスト

面倒なので引用元にリンクしないが、「同意していない相手を性的な行為に巻き込むことは性暴力」であるという主張が、原文では太字で書かれている。

シンプルなルールで倫理を再定義したいという欲求は、現代の日本に特有であるように思われる。歴史的には、たとえば新約聖書は、饒舌なたとえ話に満ちている。

あるいは、インターネットの論客に対しては、「四本脚はよい、二本脚は悪い」程度のスローガンがお似合いだと判断したのかもしれない。残念ながら、これはまったくの逆効果である。これまでに、インターネットの論客のうちでも特に幼稚な者たちが、同様のスローガンを嬉々として反復してきた (1, 2, 3, 4) からである。

結局のところ、牧村朝子はフラットデザイン化された神を発明したように見える。しかし、これは神ではなくモンスターに過ぎない。「同意」が実際には何を意味するかを明らかにするためには、『資本論』よりも長大な論考が必要である。私たちがスマートフォンでアイコンをタップするとき、内部では100万ステップのプログラムがあわただしく実行される。いずれもシンプルなのは見た目だけである。

フラットデザイン化された神に仕えるエバンジェリストが、野蛮な原住民を教化しようと決意したならば、その神を過信しないことが何よりも重要である。あなたは殉教者になることを覚悟しているだろうか?

私たちの弓矢には、すでに猛毒が塗られている。

LGBTPZNは無料の治安維持装置として再出発すべきか?

LGBTPZNは「やってしまわないための連帯」の可能性を開拓しうる概念であるという驚くべき主張を知り、たいへん刺激を受けた。

身内から犯罪者を出さないよう相互監視するペドフィリアの団体は、牧村朝子の主張によれば国内外に存在するそうだが、そのような無料の治安維持装置がLGBTPZNの「可能性を開拓しうる」というのは、あまりにも虫が良すぎる。まるで、アウシュビッツの看守にユダヤ人を任命するかのようだ。

未遂者が、既遂者を生贄として差し出すことで保身を図ろうとするであろうという期待、そして、それを無料の治安維持装置として利用できるという期待は、いずれも哀れな空想である。実際のところ、もしLGBTPZNの団体が組織されれば、既遂者の逃亡と証拠隠滅を全力で支援するだろう。

どんなに強力な殺虫剤をもってしてもゴキブリを根絶することはできないし、どんなに花粉症が辛くてもすべての杉の木を伐採することはできない。もちろんペドフィリアも。しかし、そのような空想を表明することは自由だ。

補足 「性的指向を生得性と変更不可能性の二点から性的嗜好より上位に置く価値観を問い直」す、という主張については、何ら反対する理由がない。

LGBTPZNは攻撃的であるべきだ、ただし遊戯的である場合に限って

LGBTPZNの攻撃性は、ある時はLGBTに向けられ、またある時はアングロサクソン的なペドフィリア弾圧に向けられる。前者は、LGBTがPZNを切り捨てる冷酷な既得権益集団であるという見方である。後者は、ペドフィリアに対する攻撃を、海外の価値観の輸入による内政干渉とみなす見方である。

私はこれらの立場には与していない。わが国のLGBTは既得権益ではないし、いまだ決して安全ではない。海外の価値観を否定することでナショナリズムを称揚することにも反対である。

ここで、マジョリベーション (majoribation) という用語を紹介したい。これは majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。

マジョリベーションに回収された攻撃性は遊戯的でない。V (vanilla) はもとより、LGBTの当事者でさえ、LGBTの運動家を非難するためにLGBTPZNを援用することがある。しかしながら、当事者と運動の分断を煽ることは、マジョリベーションの常套手段である。

同様に、ナショナリズムに回収された攻撃性も遊戯的でない。私たちは自由闊達に、攻撃したり攻撃しなかったりすべきだ。