感情と個人的心情がかつてなく軽蔑される日本語圏のインターネット、ついにそれを学問にする人も現れる

オックスフォード辞典の定義によれば、ポストトゥルースとは、客観的な事実よりも感情と個人的信条に訴えかけるほうが世論への影響が大きい状況を言う。

ポストトゥルースを災厄とみなし、事実の復権を祈ることは、あまりに一面的な見方である。感情と個人的信条は、どちらも私たちにとって必要なものだからである。

英語圏のインターネットにおけるポストトゥルースは、トランプ大統領とBrexitを誕生させた。では、日本ではどうであろうか?

私の見るところ、日本語圏のインターネットでは、かつてなく感情と個人的心情が軽蔑されている。古典的には、政治的な左派とエコロジストが軽蔑の対象であった。近年は「親をネトウヨにされた」というミームに見られるように、右派も軽蔑の対象として定着している。

榊剛史と鳥海不二男による論文 [1] では、イントロダクションの節で、「特定の偏ったコミュニティ」がソーシャルポルノを受容しているという偏見を披露している。この論文の実際の成果は、ソーシャルポルノの観測方法を試行した段階であるので、この記述は時期尚早に思われる。とはいえ、データの収集が進めば、「ソーシャルポルノを受容しているのは特定の偏ったコミュニティである」という、著者たちが望むような解釈を導き出すことは容易であろう。

事実を見出すには、それなりの資金と人員を動員する必要がある。だから、それらを大規模に動員できる者が、長期的には必ず勝つ。内情を知るものからすれば、東京大学が資金と人員を大規模に動員できるとは必ずしも思えないが、それに近いことは可能だろう。

ここで再び、マジョリベーション (majoribation) という用語を紹介したい。これは majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。学問としてマジョリベーションをやっていく者が現れたことは興味深い。データを収集し事実を解明することを業とする者が、事実の力による啓蒙に従わない者たちの愚かな行動を研究対象とすることは、さぞかし爽快だろう。

参考文献

[1] 榊剛史, 鳥海不二男, ソーシャルポルノ仮説の提案とその観測に向けて,
https://confit.atlas.jp/guide/event-img/jsai2018/2C2-01/public/pdf?type=in

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プログラミングと法律はどちらもパズルのようなおもしろさがあるが、法を題材にした論理パズルに熱中すべきではない

私は高木浩光のファンなので、このブログにもさまざまな影響が見て取れる。高木浩光とカエル砂鉄を比較する記事を書いたこともある。特に、GDPRについての記事で「法を題材にした論理パズルに熱中すべきではない」と書いたことは、高木浩光からの影響が顕著であるので、出典を明らかにしようと思う。

高木浩光の2008年12月31日の記事は、高木浩光の興味がセキュリティからプライバシーに移行しつつあった時期の証言であり、ファンにとっては必読の記事である。高木浩光がプライバシーの観点からグーグルストリートビューを検証したところ、読者から「この話題は興味ないから、早くいつもの話題に戻って」というコメントが寄せられたという。これに対して、高木浩光は、「技術的知識欲が満足されることが快感なだけで、本当はプライバシーなんてどうでもよかったのか?」「私たちコンピュータセキュリティの研究に携わる者は、技術的に面白いから蘊蓄を垂れているいるだけなのか。」といった、激しい反応を表している。自分自身の読者やファンに対して、敵意とも取れるような強い言葉を用いるのは異常なことで、10年前の私に鮮烈な印象を残した。

2008年の高木浩光は、コンピューターのセキュリティとプライバシーが論理パズルの題材として消費されてしまうことを憂慮していた。2018年の私は、法律を論理パズルの題材として消費しようとするインターネットの傾向に対して、機会があるごとに敵意をあらわにしている。

2016年には、私は「法フィリア」という用語を提唱した。当時の情勢としては、これは著作権や著作者人格権を振り回して自分自身の立場を有利にしようとする、自意識過剰なクリエイターを揶揄する意味合いがあった。この用語はLGBTPZN界隈に膾炙した。LGBTPZNの後ろ3字はペドフィリア・ネクロフィリア・ズーフィリアであり、「フィリア」という接尾語には親しみがあった。また、法的に児童とされる年齢が18歳未満であることから、その規定を機械的に適用してペドフィリアを弾圧しようとする風潮に対する反感もあった。

時事の話題について言えば、Coinhiveの設置者に対して、各地の警察が逮捕あるいは強圧的な捜査を濫用したことが記憶に新しい。根拠法となる不正指令電磁的記録罪は、「不正な」プログラムが違法であると述べているにすぎない。「同意していない相手を性的な行為に巻き込むことは性暴力である」というシンプルなルールが、「同意」という多義的な用語に複雑さを丸投げしているのと同じように、不正指令電磁的記録罪においても、個別の問題に応じて、誰かがこの「不正な」を解釈する必要がある。

法案が提出された後になって法律を修正することは難しいのに対して、社会と技術は急速に変化していく。だから、「恣意的な運用」が不可能な法律を作ることはできない。さらに言えば、民主的な社会においては、国会議員も法制局の職員も同じ人間なのであって、彼らの無誤謬に期待することは無意味である。だから、法律の恣意的な運用が問題なのではなく、クソな運用がなされたら、それはクソだと言っていく必要がある。今回の騒動では、クソな運用の当事者は警察なのだから、警察を無限に叩く必要がある。

私たちがどのようなソフトウェアを普及させ、どのようなインターネットを使えるようになりたいかという大局的な理解なしに、法律を題材にした論理パズルに熱中することは、滑稽であるどころか有害でもある。

私たちはしばしばシンプルなルールで倫理を再定義したいという誘惑に駆られるが、静的かつ無矛盾な法で世界を覆うことは不可能である。私たちの世界は、立法者と警察と市民による勢力均衡という、不安定かつ動的なプロセスでかろうじて維持されているにすぎない。善良であることは合法であることよりもはるかに重要である

飲食店の感動ポルノ化に悪辣な皮肉

インターネットでは感動ポルノと私刑の結び付きが容易である。

接客従事者の苦労自慢が監視社会の実現に結び付いた古典的な例として、リカオンの顔認識システムが挙げられる。リンク先で挙げられている「迷惑行為」には、迷惑ではあっても犯罪とまでは言えないものや、通常の利用客との線引きが難しいものが多く含まれている。また、実際に迷惑行為がなかったとしても、店員の判断により「迷惑客」の登録が可能である。このことから、客観的には迷惑行為とは言えなくても、たまたま従業員とトラブルになった利用者が「迷惑客」として登録される事態は十分に予想できる。

特に、飲食店の苦労自慢はインターネットで感動ポルノとして消費されがちである。そのため、ドタキャン防止システムと称する私刑プラットフォームの出現は、自然な発想であった。

漫画村を含む特定3サイトのサイトブロッキングが閣議決定された問題についても、私はかつて「著作権窃盗者との戦いを感動ポルノとして盛り上げていったら、インターネットの検閲が待ち構えていた」と評したことがある。

ところで、架空の飲食店の架空のドタキャンがインターネットで演出されるという事件が発生した。飲食店の苦労自慢が感動ポルノとして消費されがちな近年のインターネットに対する、悪辣な皮肉である。事実は啓蒙よりも暴力として作用する、とはいえ、フェイクニュースによってワールドワイドウェブを汚染することは、あまり褒められたものではない。毒をもって毒を制するとでも言うべきか。

架空の一般社団法人という戦術には親近感がある。5ちゃんねるの「国際信州学院大学」に対して、一般社団法人LGBTPZN協会設立準備会も、「山形福祉大学」という大学名を架空の役員の所属先として記載していた。

この記事は義憤というよりは熱狂的な死の舞踏に属するものなので、特に真面目な提言などはありません。これで終わりです。

それはそれとして俺はお前を殺す

事実は啓蒙よりも暴力として作用する、それはそうなのだが、暴力が悪いとは一言も言っていない。むしろ積極的にやっていくべき。

インターネットの人類は、ともすれば、攻撃的になることを忌避する意見を吐露しがちである。けれども、それは数が多い陣営に圧倒的に有利なルールである。なぜならば、そちらに属していれば、怒ったり嘆いたりする機会がそもそも少なくて済むからだ。

インターネットでは気に入らないことがあればがんがん叩いたり愚痴ったりすべき。なにしろ、分散SNSでは「死ね」とか「殺す」とか書いても (文脈が本物の脅迫でない限りは) 凍結されないという利点がある。わざわざ「○す」とか「ケア」とか書かなくていい。

私が何が嫌いかというとマジョリベーションの一言に要約できるので、もしお前らがそれに一歩でも足を踏み入れたら、俺はお前を殺す。

事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいては

オックスフォード英語辞書の選考によると、2016年の英語圏の流行語大賞はポストトゥルースであった。世界の人々は、真実が失われつつある時代をどのように生きていくべきか、さまざまに思いを巡らせていた。ところで、2018年の人類は、フェイクニュースとの戦いに血道を上げている。

事実が存在しないことに直面する機会は、意外なところにも転がっている。たとえば、密室で行われた性犯罪においては、真実は本人たちにしか知りようがない。そして、インターネットの男性たちにとっては受け入れがたいかもしれないが、そのようなときは、被害者の訴えに依拠して加害者を罰するほかに、有効な手立てはほとんどない。

事実は、それが一つしかないと信じられているがゆえに、それを奪い合う闘争を呼び起こしている。ことによると、その闘争は本来は避けられるものかもしれない。私たちがそれを奪い合うことを止めれば。

事実を見出すには、それなりの資金と人員を動員する必要がある。だから、それらを大規模に動員できる者が、長期的には必ず勝つ。じつのところ、それはあまり民主的ではないし、私たちの社会にとってあまり良いことではないかもしれない。

インターネット (正確にはConsumer Generated Media) が自分自身で事実を生み出すことはめったにない。ほとんどの場合、それは資金と人員を動員できる誰かが採掘して、それがインターネットに持ちこまれたものである。それを手にした者は一方的な殺戮が可能である、反対側の陣営が別の事実を入手するまでは。

科学またはテクノロジーを愛するインターネットの論客たちは、特に、自分たちの知識を敵対陣営への攻撃のために用いすぎていないかどうかと、社会の他のセクションに対して科学もしくはエンジニアリングのような発想を適用しすぎていないかどうか、年に一度くらいは考えてみるとよいだろう。

私たちは、隣人が無知であることを許容すべきかもしれない、少なくともインターネットにおいては。私たちが手にしているのは、理性の光ではなく、人を殺す武器である。

ヘイトスピーチを印刷して踏むデモの写真を見て「ぼくが思ってたヘイトスピーチと違う」ってなってるの弱すぎでは?

ぼくがヘイトスピーチだと思ってるツイートを踏んでくれれば支持してあげるよ (そうでないのであいつらはバカ) ってことじゃん。