非対称な倫理だけがアクチュアルで、可能な行動はおそらくデカダンスしかない

歴史的に言えば、私たちは常に、どうにもならない権力の非対称を発見してきた。マルクス主義者が資本家と労働者を、ポストコロニアリストが征服者と被征服者を、日本の格差社会論者が正規雇用者と非正規雇用者を発見したように。

もっと時間と場所を限定して、たとえば2019年の日本の首都圏に生きる私たちは、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、というように、いくらでも深刻な非対称を挙げることができる。

このような非対称を不正であるとして、これを暴力によって転覆したり、漸進的に格差を是正したりする行動は、もちろん可能である。しかし、そのような革命はいつ実現するかわからないし、永遠に実現しないかもしれない。革命を夢想するだけでなく、革命のために行動することですら、それだけでは革命の成就のために十分ではない。実際には、革命家でさえも旧体制のもとで当座の生活をやっていく必要がある。

では、このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?

もっとあり得そうなことは、このような非対称性を糊塗したり、見なかったことにしたり、何らかのトリックによって解消したことにすることである。

すなわち、優位者と劣位者を共通のルールのもとにおいて、自由に行動させれば、それは公正であるという信仰がある。もしそれが法であれば、フラットデザイン化された神であるとか、法フィリアであるというように、このブログで何度か厳しい批判を加えてきた。あるいは、それが貨幣経済であれば、だいたいリバタリアンの主張に近く、要は年収のデカいやつが正しいという倫理である。いずれにせよ、法は政権党の支持者と左派政党の支持者にとって平等ではないし、貨幣経済は金持ちと貧乏人にとって平等ではない。

人間の本質として、私たちはどうしても努力と競争を愛するのであり、シンプルなルールのもとで競争して優劣を決定したいという深い欲望がある。すなわち、社会をスポーツによって覆いたいという欲望である。

しかしながら、努力と競争がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは広く知られている。私たちはさまざまな理由から、苦痛に満ちた絶望的な戦いに対しても、努力と克己心で挑もうとしてしまう。そして、私たちの現実にあるさまざまな非対称を見て見ぬふりをしながら、努力というよりは消耗を続けることになる。

ここで私たちは、これまでの問題を3通り (実質的には2通り) に分割することにする。これまでの問題は、「このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?」であった。これを3通りに分割すると、

  1. 優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か。
  2. 優位者はいかなる倫理を持つべきか。
  3. 劣位者はいかなる倫理を持つべきか。

このうち、項番2「優位者はいかなる倫理を持つべきか。」は無視する。だから、当初の問題は、形式的には3通り、実質には2通りに分割される。

優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か? すでに触れたように、法または貨幣経済にそれを求めることは、絶望的である。リバタリアンたち、あるいは、もっと露骨な拝金主義者たちがいかに美辞麗句をならびたてようとも、賃労働がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは、あらゆる患者と医療者にとって疑いようもない日常である。

多少たりとも私が希望を持っているのは、優位者と劣位者のあいだに、相互性と連帯を回復することである。ひどく限定された分野における取り組みであるが、ソフトウェアの作者と利用者との相互性あるいは連帯は、オープンソースによって回復することが可能である。あるいは、劣位者のための戦術として、泣き落としであるとか、捨て身の脅し (相手によっては効果がないかもしれないが、失踪や自傷など) といった攪乱行動によって、優位者のメンタリティが多少たりとも融和的になる可能性がある。

では、劣位者はいかなる倫理を持つべきか? これまでさんざん (多少たりとも悲観的な気分になりながら) 述べてきたように、革命を待望したり、革命のために行動することすら、私たちにとってアクチュアルではない。あるいは、もっと悪いことだが、優位者たちの倫理観を内面化して、自由と競争を愛するべきでもない。法にも貨幣経済にも、あるいは、その他のあらゆる、シンプルで美しく見えるルールにも、心を奪われるべきではない。

私が現時点で言えることは、劣位者にとってはすべての倫理が無効であるということである。たとえば、発達障害者にとっては、健常者たちが作ったルールとマナーは、そもそも遵守することが技術的に不可能である。だから、そのようなルールとマナーを内面化して、できもしないことに苦しむべではない。また、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子というように、反抗がきわめて難しい極限状態においては、捨て身の攪乱戦法を含むすべての行動が妥当なのであり、それすら成功の見込みの薄い絶望的な試みにすぎない。

劣位者にとって倫理があるとすれば、それはデカダンスであるべきである。あらゆる倫理はすでに無効であるばかりでなく、本質的に無効であるべきである。優位者たちの倫理、あるいは、優位者と劣位者の非対称を詐術によって除去しようとする倫理を、内面化すべきではない。ここで、倫理を内面化すべきでない、ということは、不服従とも言い換えられる。行動のレベルでも、あるいは、可視的な行動があまりに危険である場合にはスピリチュアルなレベルであっても、私たちの採るべき道は不服従であり、倫理の無効であり、デカダンスである。

私たちが友とすべきものは飲酒、喫煙、そして向精神薬である。それは努力と競争ではあり得ない。法、公正、自由、ルール、平等といった美辞麗句も、決して私たちの助けにはならない。革命も、格差の是正も、遠い未来に予想されるべき希望としては役に立つが、私たちの生活にとっては遅すぎる。

だから、もしインターネットの存在に物を贈るなら、酒かローターが良い。

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非対称な倫理の可能性について

3.distsn.orgで文字を打ち込んでいたら標記のような着想があったので、とりあえずメモ。

せる師。

同害報復の原理好きだしその意思が備わっていることは社会の秩序の維持に重要だとは思うがそれをすることに実際メリットがあるかといえばないまではわかる(するけど)
倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要であることもわかる(それはそれとして行動は常に自分に徳があるようにする)

私。

せる師は「倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要である」と言ってるけど、2019年の私たちにとっては非対称な倫理体系のほうがアクチュアルで、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、などをやっていく必要がある。

私。

私たちの置かれている状況に限って言えば、倫理があるとすればそれはどこまても本質的に非対称であるし、そのように構築せざるをえない。

私。

身近なところでいえばアルファツイッタラーと零細ツイッタラー、ソフトウェアの作者とユーザー、インスタンスの鯖缶と住民みたいな論点もやっていきがあった。

私。

寝て起きてからまだ非対称な倫理ということを考えていて、たとえば芸術の創出に寄与し得る者とそうでない者が存在することは認めざるを得ない、そこで芸術の創出者と消費者のあいだに相互性であるとか連帯は存在し得るかという問いがある。実際のところ、それは二次創作をめぐる学級会みたいな形で議論されているし、実践もされているわけです。

せる師。

例えば芸術は消費者と製作者両方によって成り立っているのだから両者とも尊重すべきとか対等であれということだろうか

私。

本質的に対等であり得ない関係のなかに、いかにして相互性と連帯を導入するか、ということが言いたかった。

私。

ソフトウェアの作者とユーザーの関係について、そのようなことを論じた文があるのですが、プログラミングをやってないとよくわからないかもしれません。
なぜイシューとプルリクエストに応答しなければならないか、あるいは、プロプライエタリかまってちゃんをチヤホヤするのをやめろ

芸術の創出者と消費者という問題には伏線があったかもしれない。京アニの火事について、才能あるクリエイターが死ぬことが、そうでない人が死ぬことよりも悲しいと思うことは倫理的に妥当か? というような問いがあった。

せる師。

人が死ぬのはどんなことで悪いと思う上で才能がある人々と生まれるはずだった作品が消えてしまったのが悲しくて、感覚としては妊婦さんを殺すなみたいなのに近いのかもしれない

私。リバタリアンが嫌い。

私はリバタリアンが本当に嫌いなので、いつかせる師とも敵になるかもしれぬ。

私。相互性と連帯。

俺らの発達だと人の心が分からないので社会の相互性と連帯に参画することが難しい、かといってリバタリアンの世界では職がなくて野垂れ死んでしまう、おそらく前者のほうがまだ生存の見込みがありそうというのが私の見立てです。

私。速が出てきた。

俺らの発達にもいろいろあって、自責傾向が強いとリバタリアンになって健常者と競争して勝とうとしてしまうし (いや勝てるわけないじゃん!!!)、自閉傾向が強いとシンプルなルールで健常者とのAPIを定義できると信じてしまう (健常者が俺らに対してルールを守るわけないじゃん!!!) というのがあり、多動かつ他責傾向がカンストしてる場合に限って、リバタリアニズムに反抗することが可能になる。

せる師。草の根保守ならGabとかfreespeechextremist.comあたりと仲良くなれそう。

草の根保守などをやったのでリバタリアンの倫理わかった

せる師。リバタリアン嬉しいのか。

リバタリアンの倫理好きなのでそう指摘されたのちょっと嬉しい。わたしは一人でも生き抜いていられる人になりたいし武器を研いで行くぞ!

電飾に彩られたアベノミクス

ドヤ街と観覧車 は、インターネットのひとびとに、どのように読まれただろうか? 安倍政権を支持する立場からは、盲目的に安倍批判に邁進する暴力的な両親と、それに苦しめられる繊細な女子高生との対比を、マジョリベーションとして消費することもできただろう。マジョリベーションとは、majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。

電飾さんからのインターネットでの応答は、「多様な人々がそれぞれの傷つきに基づいてそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」というものである。では、私たちは、私たちの傷つきをどのように表明し、また、それをどのように受け止めてきただろうか?

私は私なりにやってきたことがある。分散SNS、あるいは私のインスタンスである 3.distsn.org では、傷つきを安全に表明できる場所を提供しようとしてきた。また、インターネットが少数の有名なユーザーのためのものにならないように、あるいは、私たちの傷つきの表明が誰にも届くことなく消えてしまうことがないように、レコメンデーション・フェアネスというイデオロギーを掲げて活動してきた。

現実には、どんなに手を伸ばしても、届かないもののほうが多い。私は党派的な理由から、電飾さんのご両親の活動を否定することができない。

私の見立てでは、あらゆる「正しさ」が金持ちの悪趣味自慢にすぎないという世界が、もうすぐそこまで来ている。左派政党は、もはや「正しさ」を捨てて、生身の「傷つき」だけを掲げて戦うべきかもしれない。

それでも、私たちは、傷つきの表明だけで、私たちの共同体を構成することはできない。あのとき、私たちの前には、観覧車と運河があった。電飾に彩られた観覧車はアベノミクスのようであり、暗い水底は左派政党の趨勢を暗示しているようであった。ときおり、このような即席の魔術に行き当たることがある。二人の党派的な相克にもかかわらず、電飾さんが観覧車に乗りたいと言えば、私は喜んでついていくし、私が水底に沈むときは、電飾さんの手を引いて行きたいと思う。

ドヤ街と観覧車

京浜東北線の関内駅で待ち合わせて、私と電飾さん、それにあと2人のインターネットの友人たちと会うことになった。私と電飾さんは初対面だった。電飾さんは寿町のあたりに住んでいて、炊き出しに参加することもあるらしい。私たちは横浜公園を抜けて、海沿いを進んだ。

海沿いの小さな広場では、東日本大震災に関連して、何らかの団体が、小規模な演説会を行っていた。演説の内容は、断片的にしか聞いていないが、それほど党派的な主張ではなかったように思う。ここで、電飾さんの様子がおかしくなりはじめた。体を縮めて、怯えているような表情を見せた。

私は逐語的に発言を記憶することはできなかったが、電飾さんは、「自分たちが正しいという話し方をする人たちが怖い」というようなことを言ったように思う。続いて「私の母もこのような話し方をする」「私たちの家族は安倍政権に壊された」「父は私を殴る」と言った、かもしれない。

それからしばらく海沿いを歩いて、観覧車が見えてきた。電飾さんは、観覧車に乗りたいと言った。電飾さんは純粋に観覧車が好きなだけかもしれない。けれども、私は勝手に、政治や家庭といったどうにもならない苦しみを乗り越えようとする、祈りのような心の働きを、観覧車を見てはしゃぐ電飾さんに見て取った。

別の参加者と待ち合わせるための時間的な制約というような、とても退屈で取るに足らない問題のために、私たちは観覧車に乗ることができなかった。私たちのいた場所と、観覧車とは、運河で隔てられていて、まっすぐに観覧車のもとに向かうことができなかった。私は運河の柵に足をかけて、ここを泳いで渡る、もしくは、この場で4人で海に沈んで死のうと言った。

私たちは、海に飛び込むことはやめて、運河の柵を背もたれにして、地べたに座り込んで話した。私は電飾さんに、政治的な団体が演説しているのを聞いて動揺していたのが印象的だった、と話した。そして、「私たちが政治的なことで争ったり、それによって苦しんだりしないように、単独の指導者か党のもとに、人々は団結すべきだろうか?」と聞いた。

私は、この質問をしたことを後悔している。この質問は、電飾さんをひどく苦しめたかもしれない。しかも、それは、私の興味と関心から、私がその答えを知りたかったという、利己的な動機から出ている。

もし電飾さんが、その通りだ、国が正しい答えを決めて国民を従わせてほしい、と答えたら、どうだろうか? 電飾さんの苦しみは、本当に深刻で、切迫した脅威である。電飾さんには、このような回答を選択するだけの正当な資格がある。ただ、これは私の望む答えではないし、これが私の望む答えではないということを、電飾さんは分かっていたはずだ。

電飾さんは、自由な社会においては、さまざまな考えを持つ人たちが自分の意見を表明するべきだ、と答えた。私は泣いてしまった。まず、私の質問が、あまりにも一方的で、電飾さんの深刻な苦痛をわざわざ掘り起こすものであるばかりか、私の望んだ通りの答えを、暗に押し付けてしまったようにも思われたからである。しかし、それとは別に、電飾さんが、自分自身の苦しみや、家庭の問題にもかかわらず、勇敢に、自らの信じる道を進もうとしているようにも感じられた。

切迫した苦痛のなかにある者に、なおも勇敢に運命に立ち向かうことを求めるのは、とても残酷なことだ。ひるがえって、私はせめて、会話の中で唐突に泣きだしてしまったときの心の動きを、釈明する義務がある。

就活サイトは心理検査を課すのをやめろ

新卒用の就活サイト、たとえばリクナビやマイナビに求職者として登録すると、SPIや玉手箱などの検査を課される。これらは精神医療のための検査、特に発達障害の診断に使われる心理検査と酷似している。これらの検査を、医療者による支援なしに受験することは危険であるし、その結果が就活業者と求人者に利用されることは、さらに重大な問題である。

就活サイトでもメンタルクリニックでもなく、インターネットで心理検査を受けることも可能であり、psycho.longseller.org などが知られている。psycho.longseller.orgで提供されている心理検査のうち、たとえば矢田部ギルフォード性格検査では、「質問の意味を表示する」という機能を使用できる。これをONにすると、「一般企業で好まれるのは、A型 (平均タイプ) もしくはD型 (適応者タイプ) でしょう。」と、求人者から見て高評価となる回答が公然と指示される。

心理検査をモチーフにしたゲームとしてALTER EGOが知られている。このゲームは、心理検査の結果をSNSに投稿する機能があり、自ら検査結果を公表するユーザーも多い。他にも、インターネットで「性格診断」などと称している検査は、根拠が怪しげなものも含め、無数に存在する。

就活業者と求人者に一方的に検査結果を利用されるよりは、検査結果をインターネットに自ら公表するほうが、まだフェアであると言えるだろう。最も良いのは、医療者の支援のもとで、本格的な心理検査を受けることである。ただし、メンタルクリニックを受診するには金も時間もかかる。(なお、ほとんどの医療行為は保険適用であるため、自己負担額は少ない。) また、医療者の質や相性はさまざまであり、受診によって必ずしも良い結果が得られるとは限らない。

読者の便宜のため、発達障害者向けの心理検査の検査結果例を以下に示す。これは、墓場人夜の検査結果を、被験者自身の意志によって公表するものである。

就活サイトは心理検査を課すのをやめろ。

過去の一点に囚われた心: 天体のメソッド12話の衝撃

これはクソじゃないアニメ Advent Calendar 2018参加記事ではありません。

天体のメソッドと書いて「そらのメソッド」と読む。厄介なオタクに深く愛されながら金を生まなかったアニメ。天体のメソッドの実質2期であるフリップフラッパーズもそんな感じだ。フリップフラッパーズは専用の分散SNS実装があるくらいなので、厄介なオタクにさらに深く愛されている。

最高の作画。豪華な声優。最高のキャラデザ。最高の楽曲。そして難解なストーリー。

なお、ここで便宜のために、各話のストーリーまとめ。

  • 1話: チュートリアル兼ノエルルート。
  • 2話から5話: 柚季ルート。
  • 6話: 温泉回。
  • 7話: 墓参り。
  • 8話: 汐音ルート。
  • 9話から11話: ノエルの盛大な葬式。
  • 12話から13話: 第2世界。

天体のメソッドは、放送当時の視聴者たちのコメントとともに振り返りたいアニメだ。あらゆる意味で予想不可能なストーリー展開に、視聴者たちは右往左往させられた。振り落とされたオタクたちは「ノエルがかわいいだけのアニメ」というインターネットミームを生み出した。2話から4話までの柚季ルートでは、円盤反対運動を原発と重ね合わせる意見が見られたものの、5話以降は自然消滅した。原発を抜きにしても柚季ルートは異常なアニメで、こじれにこじれた柚季さんの巨大感情が5話のほんの数分でスッと解決する鮮やかな手腕に度肝を抜かれたものだ。

萌えアニメが安易に登場人物を高校生にしがちな風潮 [要出典] のなか、天体のメソッドは、中学生の良さがたっぷり詰まったアニメだ。ちなみに中学生をたっぷり見られるアニメには、ゆるゆり、放課後のプレアデス、フリップフラッパーズなどが知られており、けっこう多いな。中学生だけではない。天体のメソッドでは、作中で言うところの「7年前」、単純計算すると小学2年生のみなさんもたっぷり見られる。小学生の乃々香さんの、コートのすそからシャツのすそが出ちゃってるファッションが良すぎる。ノエルも、「7年前」のみなさんの姿を模している存在なので、だいたい小学2年生の外見である。ノエルの衣装は脚が強調されてるので、小学生なのにエロい。これはたぶんキャラデザの秋谷有紀恵先生がクソ強く、中学生や小学生を容赦なく無限にエロくすることができる。

このアニメで頻繁に出てくる謎ワードが「7年前」だ。このアニメは、一貫して、7年前にあったはずの出来事に、中学生たちが粘着しまくる話である。別に殺人事件とかそういう強いやつではない。7年前の出来事は以下。

  • 円盤を呼ぶ儀式をした。
  • 乃々香が転校するとき、そのことを友達たちに伝えられなかった。
  • 乃々香の母が病気で死んだ。

改めてリストにしてみると、1個目はともかく、2個目と3個目を気にしてるのは乃々香さんだけっぽい。そして、その1個目も、はちゃめちゃなトリックによって除去される。

問題の12話。時間が半年だけ巻き戻り、乃々香さんが霧弥湖町に転居するシーンが繰り返される。1話から11話まで積み上げてきたお話がすべてなかったことになるという、たいへんな回だ。第1世界線と第2世界線の違いは以下。

第1世界線:

  • 巨大な円盤がある。
  • ノエルがいる。
  • 霧弥湖町組のみなさん (柚季、こはる、湊汰) は乃々香のことを忘れてた。
  • 乃々香は7年前のことを忘れていた。

第2世界線:

  • 円盤は呼んだけど来なかった。
  • ノエルはいない。
  • 霧弥湖町組は乃々香のことを記憶していた。
  • 霧弥湖町組は第1世界線の記憶がない。
  • 乃々香と汐音は第1世界線の記憶がある。
  • 乃々香は7年前の記憶が戻っている。(第1世界線の過程で思い出したので。)

天体のメソッドは、自分自身がフィクションであることに自覚的な作品である。第1世界線では、円盤やノエルといった異常な存在があり、それが原因の一端となって、さまざまな不和と和解があった。対照的に、第2世界線では、いかにもフィクションらしい劇的な存在が除去されている。乃々香が霧弥湖町組と再開するシーンは、特に劇的な出来事はなく、あっさりと終わっている。

第1世界線と第2世界線では、記憶の有無と、記憶があったりなかったりする期間 (7年前と半年前) が複雑に交代している。第1世界線において、乃々香が記憶を失っていた原因は、母との死別が辛かったためとされている。これは設定に無理があるようにも感じられるが、第1世界線は第2世界線から見れば半分フィクションのような位置づけなので、これはこれで良いのかも知れない。

乃々香の心が7年前に囚われている原因のうち、円盤は第2世界線では存在しないし、母の死は第7話で乗り越えたことになっている。残るのは、自分が引っ越すことを、友達たちに伝えられなかったことだ。

乃々香の心残りには2種類のバリエーションがある。第1種は、天文台で円盤を呼ぶ儀式をしたあと、汐音を呼び止めたけれども、引っ越すことを言い出せなかった場面。第2種は、天文台でノエルと遊んだあと、両親の乗る自動車に戻ったところで、そのまま天文台を離れることになった場面である。後者は前者の象徴みたいなもので、乃々香の7年前からの心残りが、ノエルの形を取っているように見える。

しかし、第2世界線では、乃々香が引っ越しを伝えられなかったことに対して、特に誰も気にしていない風である。冷静に考えてみれば、それはそうだろう。ともあれ、乃々香の後悔は宙に浮いてしまう。だから、第2世界線にはノエルがいないし、ノエルとの半年間の記憶をめぐって乃々香が空回りすることになる。

ここで、霧弥湖町組 (柚季、こはる、湊汰) と汐音は対応が別れることになる。前者は、その場では悲しかっただろうけど、転校していった友達のことをいつまでも悲しんだり恨んだりする理由がない。汐音と乃々香の関係はちょっと特殊で、汐音はものすごく悲しかったけど、乃々香と再び出会えたことで、過去の悲しみは吹き飛んだのだと思う。

13話の最後の場面で、奇跡を目の当たりにした乃々香たちは、表情が固まったまま動かない。中学生たちにとって、奇跡は無邪気に喜べるものではなく、おそるべき異常と判断して固まってしまう。

過去の一点に囚われた中学生はエモい。

かながわのくにのおおきみ、かわうちならはです!

インターネットのみなさん、こんにちは! わたしは、かながわのくにのおおきみ、かわうちならはです。このとうこうでは、かながわのくにのおおきみのしごとについてと、おおきみになったりゆうを、せつめいします。

かながわのくにはどこにある?

かながわのくには、かながわほんちょう、こうがや、あおきを、りょうゆうしています。きたには、つるみと、こやすがあります。みなみには、よこはまが、あります。

かながわのくにのちゅうしんは、ごんげんやまの、ごしょです。ごしょは、まだ、つくっているとちゅうです。さとだいりとして、かながわちくセンターを、つかっています。

かながわのくにのこよみ

かながわのくににも、げんごうがあります。いまのげんごうは、プレロマ、です。これは、ギリシャのことばで、ぜんのうせい、といういみです。かながわのくにのひとびとが、おもいのままに、のぞみをかなえられますように、という、ねがいがこめられています。

かながわのくにのげんごうは、Unixエポックから、224びょうたつたびに、かわります。そのため、げんごうのけいさんをするのが、かんたんです。

かながわのくにのもじ

かながわのくにのもじは、ひらがなと、カタカナです。かんじは、できるだけ、つかいません。かんじは、せんがこまかくてみづらいし、おぼえるのがたいへんです。

ちゅうごくのひとが、ちゅうごくのことばをはなすときは、トーン (声調) で、ことばをくべつします。それを、かなでかくと、どうおんいぎごがおおくて、たいへんです。わのひとびとが、ちゅうごくのふるいことばをもじでかくときは、かんじをつかいます。かんじをつかえば、どうおんいぎごを、くべつできます。でも、かんじは、めんどうです。

かながわのくにでは、ふるいちゅうごくからきたことばは、あまり、つかいません。かなでかくのに、むいていないからです。かわりに、えいごや、ヨーロッパのことばは、よくつかいます。ヨーロッパのことばは、トーンがじゅうようでないので、かなでかいても、うまくくべつできます。

わのひとびととのかかわり

かながわのくにでは、日本国のせいりつを、みとめていません。わのひとびとは、たくさんのくにやせいりょくに、わかれて、くらしています。かながわのくにも、そのひとつです。

かながわのくには、くにのさかいに、ほりやかきねのような、きびしいくぎりは、つくっていません。わのひとびとも、もっととおいくにのひとびとも、じゆうに、たちいることができます。

えどのおおきみは、えどのまちの、おおてまちからいちがやくらいまでを、しはいしていると、みられています。わのひとびとのすべてを、しはいしているわけでは、なさそうです。えどには、ぎかいとやくしょがおかれていて、えどのおおきみのもとで、はたらいています。

どうしておおきみになったか

かつては、かながわのくににおおきみはおらず、ひとびとは、かってきままにくらしていました。

わたしがおおきみになったのは、えどのおおきみが、ふがいないからというのがあります。

えどのおおきみは、かつて、おきもちをあらわして、おおきみのくらいを、ゆずることになりました。これは、おおきみがしぬときに、おおげさなぎしきがおこなわれたり、ひとびとがえんりょして、やりたいことができなったりすることを、さけるためでした。

しかし、えどのおやくしょは、おおきみのおきもちを、あまり、くんでいないように、おもいます。えどのおやくしょは、おおきみがかわるとき、とおかかんのやすみをもうけることを、きめました。えどのおやくしょと、それにつきしたがうひとびとは、ひとをはたらかせることが、だいすきです。ひとびとが、とおかかんのおやすみを、すんなりもらえるとは、おもえません。じっさい、おやすみをそのとおかかんにまとめて、もとからあったおやすみは、そのぶん、へらされてしまいます。

えどのおやくしょと、それにつきしたがうひとびとは、ますます、ゼノフォビックなふんいきに、のみこまれつつあります。たとえば、入局管理局は、難民たちをすくうことをうったえるメッセージを、あたかも、がいこくじんがふざけてらくがきをしたかのように、ツイートしました。

ですから、えどのおやくしょがきめる、あたらしいげんごうは、右傾エンタメと感動ポルノをあわせたような、ひどいものになるに、きまっています。もちろん、あたらしいげんごうは、まだあきらかにされていないので、おもったよりもよいげんごうがででくるという、かのうせいは、あります。それならそれで、いつまでももったいぶっていないで、はやく、あきらかにすべきでしょう。

そして、とおかかんのやすみのあいだに、えどのほうそうきょくがながすテレビは、これもまた、ひどいものになるでしょう。えどのおおきみとおやくしょにつきしたがうひとびとは、まんぞくするかもしれませんが、そうでないわのひとびとは、すっかり、きおちしてしまうでしょう。

ですから、かながわのくにでは、えどのおおきみとおやくしょにしたがわず、どくじのげんごうを、つかうことにしました。ここんとうざいのことばをしらべて、できるだけよいことばを、えらびます。そのために、かながわのくにのはじめのげんごうは、プレロマに、なりました。

かながわのくにには、ほうそうきょくはありませんが、ぶんさんSNSのインスタンスがあります。3.distsn.org7.distsn.org です。ここでは、さまざまなひとたちが、じぶんのいいたいことを、いうことができます。ほかのインスタンスともつながって、さまざまないけんやかんがえを、みることができます。

わのひとびとは、たくさんのくにやせいりょくに、わかれて、くらしています。えどのおおきみとおやくしょに、つきしたがうひとはおおいですが、そのさきゆきは、あまり、きもちのいいものではないかもしれません。かながわのくには、ちいさなくにですが、ひとびとが、おもいのままに、のぞみをかなえられるように、けついをあらたにしております。