食べログは評価の分散が小さいと得点が3.22に底上げされるかもしれない

概要

食べログの得点は、ユーザーが入力した評価の分散が小さく、かつ得点が3.20未満のとき、3.22に底上げされる処理があるかもしれない。あまり自信ない。

背景

食べログの掲載店舗の得点について、インターネットのまとめサイトでは、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言がしばしば掲載されてきた。さらに、この仮説を統計的な手法で実証したと主張するブログ記事が出現し、話題となった。これに対して、食べログの運営者である株式会社カカクコムは、この疑惑を否定するプレスリリースを発表した。また、この件について検証を試みた複数の記事がブログなどで掲載されている。

井上明人は、店舗のレビューの数によって得点の最頻値が異なることを示し、少なくとも4種類の異常なピークが存在することを明らかにした。以下の図は井上明人からの引用である。

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この図から読み取れる4種類のピークは、3.0のすぐ上、3.2のすぐ上、3.6のすぐ下、3.8のすぐ下である。

これらの異常値のうち、3.01のピークについては、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理の存在が示唆されている。では、他の3種類のピークについても、定性的な理解を進めることが可能だろうか?

データの収集

今回の調査では、2019年10月14日時点に収集したデータを使用した。食べログの掲載店舗のうち、宮城県仙台市に立地し、なおかつレビュー数が30以上40以下であるものを調査対象とし、これらの店舗の得点とレビュー数を収集した。

また、これらの店舗のうち、得点が3.22ちょうどであるものと、得点が3.20未満であるものについて、ユーザーによる評価点を収集した。ユーザーによる評価点は、0.5点刻みのビン (1.0以上1.5未満、1.5以上2.0未満、2.0以上2.5未満、……、4.5以上5.0未満、5.0ちょうど) ごとの人数を収集した。これは、以下の図のような画面を目視することで収集できる。

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データの収集はスクレイピングを用いず、ウェブサイトの目視によった。

統計的な処理

以下の図は、レビュー数が30以上40以下である店舗の得点のヒストグラムである。ヒストグラムのビン幅は0.01である。このビン幅を選択したのは、食べログの得点が0.01を最小単位として表示されるためである。この図は得点が3.00以上3.40未満の店舗のみを示している。得点が3.40以上の店舗もわずかに存在するが、この図では省略した。得点が3.00未満である店舗は、実際に存在しない。

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この図から読み取れるように、3.22に異常なピークがある。レビュー数が30から40あたりの領域において、3.2のすぐ上に異常なピークがあることは、井上明人 (前掲) の調査ですでに明らかである。今回の調査でもそれが裏付けられた。

次に、得点が3.22である店舗群と、得点が3.20未満である店舗群について、ユーザーが入力した評価点の分布を調査する。ここでは、評価点を入力したユーザーに占める、2.0点以上4.0点未満の評価点を入力したユーザーの割合を、評価点のばらつきのなさの指標として用いる。

以下の表は、得点が3.22である店舗群と、得点が3.20未満である店舗群について、評価点のばらつきのなさを比較した表である。表の第1列は店舗の得点である。第2列はレビューの数である。第3列は、得点が3.22ちょうどであればX印を印字し、そうでなければ空欄とした。第4列は、評価点のばらつきのなさ、すなわち、2.0点以上4.0点未満の評価点を入力したユーザーの割合である。

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この表から読み取れることは、「評価点のばらつきのなさ」の閾値を0.900あたりに見ると、それよりも上にX印が集中していることである。ただし、集中しているといっても、例外も多く、すべてのデータを完全に説明できるものではない。

考察

得点を10進法で表記したときの心理的な影響から、得点が3.20を下回った店舗に対して、何らかの条件によって、得点を3.22まで底上げする処理が存在すると推測した。また、食べログの公式ドキュメントでは、「評価が割れているお店」の処理を低く抑えているかのような記述があることから、得点を3.22に底上げする処理は、ユーザーによる評価点のばらつきが小さい店舗に対して行われていると推測した。

実際に、得点が3.22である店舗は、評価点のばらつきが小さい店舗が多く、得点が3.20未満である店舗は、評価点のばらつきが大きい店舗が多い。しかしながら、この仮説によってすべてのデータを説明できているわけではない。特に、この処理が、評価点のばらつきが小さい店舗への救済措置であると仮定するならば、評価点のばらつきが小さいにもかかわらず得点が3.20未満にとどまっている店舗の存在は、たとえ1件であっても問題になる。

これらの考察から、得点が3.20未満である店舗のうち、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さい店舗は、得点が3.22に底上げする処理が存在するかもしれない、ただし確信は持てない、ということが言えるであろう。

議論

今回の一連の騒動では、食べログの得点には3.6と3.8に異常な特徴が存在するという統計的な分析と、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言を結び付けた主張を行った者がいたことから、人々の耳目を集めることとなった。しかしながら、井上明人 (前掲) によれば、食べログの得点には少なくとも4種類の異常なピークが存在する。そのうち2種類の特徴だけを取り出して、流言飛語の類と結びつけるのは、いささか軽率であろう。

このような騒動に立ち向かうためには、統計的な処理をもてあそぶだけでなく、定性的な理解を進めることが欠かせない。墓場人夜 (前掲) は、3.01のピークについて、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在することを示し、これを低得点の店舗に対する救済措置であると解釈した。今回の調査では、3.22のピークについて、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さな店舗の得点を3.22まで底上げする処理が存在するという解釈を示した。ただし、この解釈によってすべてのデータを説明できるわけではなく、あくまでも、このような処理の存在を示唆するにとどまった。

課題

得点が3.22ちょうどである店舗群に対して、得点が3.20未満である店舗群を対照群としたのは、あまり良い判断ではなかった。たぶん3.20と3.21も対照群に含めるべきだったと思う。食べログの得点調整アルゴリズムの設計者が、10進法の切りの良い数字に心理的な効果を認めているという仮定は、あくまでも推測であって、明確な根拠があるわけではない。

まとめ

食べログの得点分布に存在する複数の異常な特徴のうち、3.22のピークについて、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さな店舗の得点を3.22まで底上げする処理が存在するという解釈を示した。

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食べログの得点は3.00を下回ると3.01に底上げされる

概要

食べログの得点は3.00を下回ると3.01に底上げされることが分かった。

背景

食べログの掲載店舗の得点について、インターネットのまとめサイトでは、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言がしばしば掲載されてきた。これを受けて、藍屋えんは、統計的手法によりこの仮説を実証したと主張した。これに対して、konkon3249は、店舗が会員店舗であるか否かで得点の傾向に違いが見られないことから、食べログによる得点の処理が会員店舗への利益誘導ではないことを示した。さらに、井上明人は、店舗のレビューの数によって得点のピークが異なることから、食べログによる得点の算出は複数の閾値を用いた複合的な処理であることを示した。

トデスキングと井上明人 (前掲) が引用しているように、食べログは公式ドキュメントで得点の算出方法を明らかにしている。核心部分は「悪意のある不正な業者」に悪用されることを防ぐためとして非公開としているが、公開されている部分だけでも多くの情報を含んでいる。

食べログの得点が複雑な処理を経て算出されていることは、食べログの公式ドキュメントが自ら明らかにしている通りである。では、食べログの得点の算出アルゴリズムは、まとめサイトと藍屋えんが主張するような、会員店舗 (食べログの運営者による用語では「有料集客サービス」) への利益誘導に利用されているのだろうか? それとも、すべての処理が、純粋な善意 (あるいは、サービスの向上という営利企業として当然の行為) によって説明可能なのであろうか?

データの収集

今回の調査では、2019年10月10日時点に収集したデータを使用した。食べログの掲載店舗のうち、山形県米沢市に立地し、なおかつレビュー数が2以上20以下であるものを調査対象とし、これらの店舗の得点とレビュー数を収集した。データの収集はスクレイピングを用いず、ウェブサイトの目視によった。

統計的な処理

以下のグラフは、店舗のレビュー数と得点の関係を示した散布図である。横軸がレビュー数、縦軸が得点である。

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この図より、レビュー数が20以下の領域では、レビュー数が得点にほぼ線形に重畳されていることが分かる。これは、食べログの公式ドキュメント (前掲) のいう「評価が集まらないと点数が上がらない」という説明を裏付けるものである。

また、得点が3.00を下回る店舗が存在しないことは、顕著な特徴である。

次に、以下のグラフは、レビュー数が2以上5以下である店舗についての、得点のヒストグラムである。ヒストグラムのビン幅は0.01である。このビン幅を選択したのは、食べログの得点が0.01を最小単位として表示されるためである。

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この図より、得点が3.01である店舗が顕著に多いことが読み取れる。

なお、井上明人 (前掲) の調査でも、レビュー数が25以下の領域では得点の最頻値は3.01であることが示されている。以下の図は井上からの引用。

20191012-00146614-roupeiro-008-2-view

次に、以下のグラフは、レビュー数が6以上20以下である店舗についての、得点のヒストグラムである。他の条件は前の図と同じである。

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レビュー数が6以上20以下である店舗については、3.01に顕著なピークは見られない。

考察

得点が3.00未満の店舗が存在しないことと、レビュー数が2以上5以下である店舗については得点が3.01である店舗が顕著に多いことから、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在することが推測できる。

ここで、レビュー数が20以下の領域ではレビュー数が得点にほぼ線形に重畳されているという特徴を思い出そう。すると、レビュー数が少ない店舗はそのままでは得点が3.00を下回ることが多く、それにより、それを3.01に底上げされる処理も多く行われていると推測される。これに対して、レビュー数の多い店舗では、得点が3.00を下回ることは珍しく、それを3.01に底上げされる機会も少ないと推測される。

実際に、レビュー数が2以上5以下のヒストグラムでは、もし3.00未満の領域にもグラフが続いているとすれば、その領域にも長く裾が伸びていて、少なくない数の店舗がそこに含まれるように見える。さらに楽観的に見れば、そのような「自然な」分布における得点が3.00未満の店舗の数と、得点が3.01のピークに積み上げられている店舗の数は、おおよそ等しいようにも見える。

一方、レビュー数が6以上20以下のヒストグラムでは、得点の分布を3.00未満の領域に延長したとしても、そこに含まれる店舗の数は少ないだろう。先ほどと同様に楽観的な見方をすれば、こちらのヒストグラムでも、「自然な」分布における得点が3.00未満の店舗の数と、得点が3.01のピークに積み上げられている店舗の数がほぼ等しいように見える。

これらの特徴から、得点が3.00未満の店舗が存在しないというデータと、レビュー数が2以上5以下の領域では得点が3.01である店舗が顕著に多いというデータを結び付け、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在するという結論を得ることが自然であると考えられる。

議論

得点が3.00未満の店舗は得点を3.01に底上げするという仕様は、食べログに掲載された店舗の立場からすれば、恩恵の多い救済措置であろう。しかし、このような大胆な仕様を、ユーザーへの十分な説明なしに導入することは、ユーザーの立場からすれば不遜に感じられるかもしれない。

実際のところ、ユーザーが入力した生の得点ではなく、それを複雑に処理した得点を提示するという食べログの方針は、いささかパターナリスティックに感じられる。とはいえ、食べログにとってユーザーと店舗とどちらが重要な関係先であるかといえば、店舗を優先すべきであるのは当然である。店舗の立場からすれば、インターネットの存在に勝手に点数をつけられることは感情を著しく害する場合が少なくないし、経済的な不利益に直結する場合もある (文春オンラインの記事などを参照)。

今回の一連の騒動では、まず藍屋えんが3.6と3.8のアノマリー (異常な現象) を統計的な手法で明らかにしたうえで、それを「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言を立証したものとして論じた。しかし、konkon3249は、会員店舗であるか否かという情報を付け加えることで、まったく別の解釈を示した。井上明人は3.6と3.8のほかにも複数のアノマリーが存在することを示し、食べログの得点の算出方法については多面的な理解が必要であることを示した。私の今回の調査では、井上明人が示した複数のアノマリーのうち3.01のピークについて、低得点の店舗に対する救済措置であるという解釈を示した。

今回の騒動を振り返ると、食べログの得点の算出が複雑な処理を経ていることは公式ドキュメントで明らかにされているのだから、争点があるとしたら、それらの処理が、例えば金銭の授受をともなうような不正であったかどうかという点に尽きる。この点については統計的な処理だけでは決して明らかにすることはできず、食べログの仕様についての定性的な理解が不可欠である。

食べログの得点の分布における複数のアノマリーのうち少なくとも一つ、すなわち3.01のピークについては、得点が3.00を下回る店舗に対する救済措置であるという解釈が妥当であることが、今回の調査で示された。驚き最小の原則からすれば、他のアノマリーについても、不正ではなく正当な理由のある処理であると推察すべきだろう。

一般に、統計的な処理から知識を得るためには、定性的な理解による裏付けが欠かせない。定性的な理解を欠いたまま、統計的な処理だけに耽溺すれば、今回の騒動で藍屋えんがしたように、たまたま発見した異常な現象を根拠に、安易に流言飛語を信用することになりかねない。

まとめ

食べログの得点には複数の奇妙な特徴があることが知られている。今回の調査では、そのうち3.01のピークについて、得点が3.00を下回る店舗は3.01に底上げされるという処理が存在することを示した。また、これを低得点の店舗に対する救済措置であると解釈すれば、この処理は正当な仕様であり、不正な利益誘導ではないことを示した。

実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない

絶対の真理を会得したいとか、無知蒙昧な民衆を教化したいといった強烈な情熱があるのでもない限り、私たちにとって問題なのは、何が真実で何が虚偽であるかではない。むしろ、自分の観測範囲にいる隣人たちが、どのような信念を持っており、それがどのように分布しているかが、より差し迫った問題である。

たとえば、ヘゲモニー的なディスクールが力を持っていて、マイノリティはささやかな反抗を試みるか、もしくは自らの信念を偽って生きているような環境は、私たちにとって暮らしやすい場所だろうか? あるいは、さまざまな対立が、2個の信念の体系に集約されており、どちらか一方を選んで味方することができるような環境はどうだろうか? あるいは、さまざまな争点に対して多数の信念が存在して、ある時は争い、またある時は和解しているような環境はどうだろうか?

議会制民主主義においては、ヘゲモニー政党制、二大政党制、小党分立制の、それぞれの利点と欠点が経験的に知られている。余談だが、個人的には、ヨーロッパ風の小党分立制が優れているように思える。

ところで、「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、あまりにもシンプルな原理に、過大な期待を負わせているように思える。すなわち、私がかつて「フラットデザイン化された神」と軽蔑的に命名した、インターネットの論客にありがちな構造に陥っているのではないか。

多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。なぜならば、優勢なディスクールに属している者は、行動も発言もますます大胆になっていくのに対して、そうでない者たちは、少しずつではあるが確実に、発言のたびに負担が大きくなり、自らの信念を隠したり、周囲に迎合したりすることの必要性が増大していくからである。

私たちにとって、すべての信念が同様に尊重されるユートピアを夢見ることはもはや不可能である。むしろ、私たちは、ヘゲモニー的なディスクールに圧迫されつつある劣勢な信念に、積極的に加担する必要がある。すなわち、天上界において自由や平等を夢想することをやめて、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

そして、私たちは、理性的で、美しく、高潔に見える人々の主張に反対し、暴力的で、偏狭で、醜悪に見える人々の主張を採らなければならない。なぜなら、科学、統計、調査報道といったリソースは、ヘゲモニーを獲得した人々によって、より大規模かつ効率的に動員され得るからである。そうでない人々の武器は、オカルト、アジテーション、ゴシップである。それゆえに、冷静であること、礼儀正しいこと、理性的であることは、ヘゲモニーを内面化した者たちのしるしであり、私たちはそれに幻惑されることを避けなければならない。

一例として、古典的な疑似科学である「水からの伝言」問題を考えてみよう。これは、特定の教師らによる団体が推奨し、複数の小学校で道徳の授業に使われたことから、問題が拡大した。ここで、ちょっとした思考実験がある。科学の信奉者たちは、もし科学的な手法によって厳格にコントロールされた実験系において、「水からの伝言」が主張する通りの実験結果が得られたら、この事実を道徳の授業に利用することを歓迎するだろうか?

これまでの筆致からお分かりいただけると思うが、「水からの伝言」が科学的な事実であったとしても、それを道徳の授業に使うべきでないという結論は何ら後退させるべきではない、というのが私の主張である。子供たちに「きれいな言葉」と「きたない言葉」の区別を強いることは、生活のためにある程度は必要な知識であるとはいえ、民衆から反抗のための語彙を奪うことにほかならないからである。

ここでは一例しか挙げていないが、邪悪な疑似科学とされているもののほとんどは、疑似科学であるがゆえに邪悪なのではなく、まったく別の理由、抽象的に言えば人々の生活とのかかわりにおいて邪悪であるがゆえに、滅ぼされる必要があるものばかりである。疑似科学との戦いに、科学者たちの知識はほとんど必要にならない。そればかりか、疑似科学の信奉者たちの主張が、もし科学的に真実であったとしても、私たちはなお、その主張に反対し続ける必要がある。

念のために逆方向の例も挙げておくと、子宮頸癌ワクチンに反対する運動や、2011年の原発事故によって子供たちの甲状腺癌が増加したと主張する運動は、科学的には誤りであるかもしれないが、民衆の深い心理から出たものである。もし敵が私たちにマシンガンの銃口を向けるならば、私たちはパチンコか投石のような手段で、即席の反抗を試みることができる。だとすれば、敵対者たちが科学を武器として征服を開始したとき、私たちにできることは、即席の魔術によってこれに対抗することである。実際に、オカルトは、科学に対して抵抗を試みる者のための、即席の魔術にほかならない。それは、科学を信奉する者からは疑似科学と呼ばれるかもしれないが、実際には、科学の偽物を作り上げることには、それ相応の意味があると考えるべきだろう。

残念ながら、前述の「特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない」という主張を、私は実践できているとは言いがたい。ある意味では罪滅ぼしとして、Consumer Generated Mediaの分野で、レコメンデーション・フェアネスという概念の普及に尽力してきた。レコメンデーション・フェアネスとは、特定のユーザーにプレゼンスが集中すること (Internet of Celebrities) に反対し、無名の人々を積極的に推挙すべきだという主張である。あるレコメンデーション・エンジンが、すでに多くのフォロワーを獲得しているユーザーをさらにレコメンドするならば、そのレコメンデーション・エンジンは「アンフェア」である。そして、レコメンデーション・エンジンが「ニュートラル」であるとは、あらゆるユーザーを平等に扱うこと、例えば、単にランダムなユーザーを表示するとか、あるいは、あるユーザーに似たユーザーを推挙するなどである。最後に、レコメンデーション・エンジンが「フェア」であるとは、無名のユーザーを積極的に推挙すること、例えば、新しく登録したばかりのユーザーを表示するとか、フォロワー数が少ないユーザーを優先して表示するなどである。

「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、レコメンデーション・フェアネスとのアナロジーで言えば、「ニュートラル」の段階にとどまる。そうではなく、「フェア」であることを目指そうとするならば、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

すべての信念が平等に正しいという境地を「波」にたとえるのは、荘子のいう「気」のイメージを思い起こさせる。書物としての「荘子」は内篇、外篇、雑篇に分けられている。雑篇は荘子の思想であるかどうか怪しいものが押し込められているので、ここでは内篇と外篇について考える。内篇では、詩的で高邁な無為の思想が説かれるのに対して、外篇では、儒家をはじめとする対立する党派への、激しい論難が行われている。私は、このいずれも、真実の荘子を写している文章であると思う。

私がこれまで書いてきた文章にも、詩的で自己完結的なものと、攻撃的で党派的なものがあるようである。しかも、ひとつのトピックについて、前者と後者がこの順に連続して書かれた例が複数ある。このブログでは、LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではないLGBTPZNは攻撃的であるべきだ、ただし遊戯的である場合に限って事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいてはそれはそれとして俺はお前を殺すドヤ街と観覧車電飾に彩られたアベノミクス、小説では、はだしのフクシマカミカゼ神社ハイスクールがそうである。後者を前者に対する蛇足と解することも可能だが、私としては、どちらも意味のある文章であったと考えている。

小説では、文学的な構成の美しさを優先すると、どうしても、詩的で自己完結的なものになりがちである。例えばブログであればその制約は緩和されるけれども、結局のところ、非暴力の言論を闘争の手段とする限りは、その射程にはおのずと限界がある。

99 %の著作権厨と1 %のエリート: 日本語圏のインターネットにおける法と正義

慶応義塾大学の田中辰夫教授が「著作権厨」という用語を提唱した。田中によれば、「議論を阻む一番の障害が、著作権に非常にうるさく、現行の著作権法を絶対だとまきちらす『著作権厨』だ」とのことであり、「『著作権厨』という言葉を広め、その影響力を下げること」を目指しているという。

私はかつて「法フィリア」という用語を提唱した。この用語も、念頭に置いているのは著作権法であったため、「著作権厨」と意味はほとんど同じである。わかりやすさで言えば、著作権厨のほうが優れているだろう。

では、著作権厨または法フィリアとは、実際にはどのような人たちなのだろうか? 日本語圏のマストドンの鯖缶界隈を例に見てみよう。

日本語圏のマストドンの鯖缶界隈も、メンタリティは著作権厨に近い。GDPR、刑法175条、著作権法といったこまごまとした法や規則に、常におびえている。自分たちのインスタンスが違法にならないことに神経を注ぐ一方で、分散SNSやインターネットがどうあるべきかを考えている者は少ない。THE_BOSSが刑法175条との戦いを通してリベラルな意見を表明していたことが、稀有な例外であろう。

マストドンの鯖缶が務まるくらいなのだから、技術も知性も、インターネットの平均的なユーザーよりはだいぶ上なはずである。この例からすると、著作権厨の何が問題なのか理解できるのは、ごく少数のエリートだけだろう。慶応大学の田中教授に代表されるような1 %のエリートたちが、インターネットの著作権厨を発見するのに2019年までかかってしまったのは、遅きに逸した感がある。

あるいは、インターネットのユーザーの大半は、そもそも著作権という概念を理解していないのだろうか? 漫画村が注目されてからというもの、出版社たちが無知な民衆を「啓蒙」することで、大量の著作権厨を作り出そうと奮闘しているのは、皮肉な成り行きである。

制度的苦痛と根源的苦痛

異齢愛が異常とされない社会では、異齢セックスが行われても児は苦痛ではないし、性嫌悪者にもならないという仮説を持っている。ただし、この仮説には穴があって、家父長制なり男尊女卑が社会的規範である環境において、女性たちが苦痛を感じなかったかというと、そんなわけはないだろうというのがある。

いずれにせよ、制度的な苦痛と根源的な苦痛という概念を得たことは、広範な応用が期待できる。例えば、インターネットには、キリスト教が主流でない社会においてキリスト教の家庭に生まれたというだけで、親を一生恨んでる人もいる。これを制度的な苦痛と表現することで、本人の苦痛は真正のものであることに留意しつつ、キリスト教の側だけに責任があるわけではないことを含意することができる。

あるいは、インターネットにおける政治的な発言の99 %は、制度的な苦痛の表明である、というアフォリズムも可能である。このブログでは、かつて同じことをマジョリベーションという用語で説明したが、「制度的な苦痛」という用語であれば、より穏当に表現することができるだろう。

ところで、根源的苦痛と制度的苦痛を区別することは可能だろうか? 実際のところ、根源的苦痛は存在せず、あらゆる苦痛は制度的苦痛であるかもしれない。ただし、あまりに普遍的であるために変革することを想像することが難しい制度と、当座の権力者によって人工的に維持されている制度を区別することは可能である。私たちが従属している制度と、その制度によってもたらされる (あるいは、その制度の周縁における軋轢から生じる) 苦痛が、どの程度まで普遍的であるかは、制度の内側にいる者であっても、判断することが可能だろう。

感情と個人的心情がかつてなく軽蔑される日本語圏のインターネット、ついにそれを学問にする人も現れる

オックスフォード辞典の定義によれば、ポストトゥルースとは、客観的な事実よりも感情と個人的信条に訴えかけるほうが世論への影響が大きい状況を言う。

ポストトゥルースを災厄とみなし、事実の復権を祈ることは、あまりに一面的な見方である。感情と個人的信条は、どちらも私たちにとって必要なものだからである。

英語圏のインターネットにおけるポストトゥルースは、トランプ大統領とBrexitを誕生させた。では、日本ではどうであろうか?

私の見るところ、日本語圏のインターネットでは、かつてなく感情と個人的心情が軽蔑されている。古典的には、政治的な左派とエコロジストが軽蔑の対象であった。近年は「親をネトウヨにされた」というミームに見られるように、右派も軽蔑の対象として定着している。

榊剛史と鳥海不二男による論文 [1] では、イントロダクションの節で、「特定の偏ったコミュニティ」がソーシャルポルノを受容しているという偏見を披露している。この論文の実際の成果は、ソーシャルポルノの観測方法を試行した段階であるので、この記述は時期尚早に思われる。とはいえ、データの収集が進めば、「ソーシャルポルノを受容しているのは特定の偏ったコミュニティである」という、著者たちが望むような解釈を導き出すことは容易であろう。

事実を見出すには、それなりの資金と人員を動員する必要がある。だから、それらを大規模に動員できる者が、長期的には必ず勝つ。内情を知るものからすれば、東京大学が資金と人員を大規模に動員できるとは必ずしも思えないが、それに近いことは可能だろう。

ここで再び、マジョリベーション (majoribation) という用語を紹介したい。これは majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。学問としてマジョリベーションをやっていく者が現れたことは興味深い。データを収集し事実を解明することを業とする者が、事実の力による啓蒙に従わない者たちの愚かな行動を研究対象とすることは、さぞかし爽快だろう。

参考文献

[1] 榊剛史, 鳥海不二男, ソーシャルポルノ仮説の提案とその観測に向けて,
https://confit.atlas.jp/guide/event-img/jsai2018/2C2-01/public/pdf?type=in

プログラミングと法律はどちらもパズルのようなおもしろさがあるが、法を題材にした論理パズルに熱中すべきではない

私は高木浩光のファンなので、このブログにもさまざまな影響が見て取れる。高木浩光とカエル砂鉄を比較する記事を書いたこともある。特に、GDPRについての記事で「法を題材にした論理パズルに熱中すべきではない」と書いたことは、高木浩光からの影響が顕著であるので、出典を明らかにしようと思う。

高木浩光の2008年12月31日の記事は、高木浩光の興味がセキュリティからプライバシーに移行しつつあった時期の証言であり、ファンにとっては必読の記事である。高木浩光がプライバシーの観点からグーグルストリートビューを検証したところ、読者から「この話題は興味ないから、早くいつもの話題に戻って」というコメントが寄せられたという。これに対して、高木浩光は、「技術的知識欲が満足されることが快感なだけで、本当はプライバシーなんてどうでもよかったのか?」「私たちコンピュータセキュリティの研究に携わる者は、技術的に面白いから蘊蓄を垂れているいるだけなのか。」といった、激しい反応を表している。自分自身の読者やファンに対して、敵意とも取れるような強い言葉を用いるのは異常なことで、10年前の私に鮮烈な印象を残した。

2008年の高木浩光は、コンピューターのセキュリティとプライバシーが論理パズルの題材として消費されてしまうことを憂慮していた。2018年の私は、法律を論理パズルの題材として消費しようとするインターネットの傾向に対して、機会があるごとに敵意をあらわにしている。

2016年には、私は「法フィリア」という用語を提唱した。当時の情勢としては、これは著作権や著作者人格権を振り回して自分自身の立場を有利にしようとする、自意識過剰なクリエイターを揶揄する意味合いがあった。この用語はLGBTPZN界隈に膾炙した。LGBTPZNの後ろ3字はペドフィリア・ネクロフィリア・ズーフィリアであり、「フィリア」という接尾語には親しみがあった。また、法的に児童とされる年齢が18歳未満であることから、その規定を機械的に適用してペドフィリアを弾圧しようとする風潮に対する反感もあった。

時事の話題について言えば、Coinhiveの設置者に対して、各地の警察が逮捕あるいは強圧的な捜査を濫用したことが記憶に新しい。根拠法となる不正指令電磁的記録罪は、「不正な」プログラムが違法であると述べているにすぎない。「同意していない相手を性的な行為に巻き込むことは性暴力である」というシンプルなルールが、「同意」という多義的な用語に複雑さを丸投げしているのと同じように、不正指令電磁的記録罪においても、個別の問題に応じて、誰かがこの「不正な」を解釈する必要がある。

法案が提出された後になって法律を修正することは難しいのに対して、社会と技術は急速に変化していく。だから、「恣意的な運用」が不可能な法律を作ることはできない。さらに言えば、民主的な社会においては、国会議員も法制局の職員も同じ人間なのであって、彼らの無誤謬に期待することは無意味である。だから、法律の恣意的な運用が問題なのではなく、クソな運用がなされたら、それはクソだと言っていく必要がある。今回の騒動では、クソな運用の当事者は警察なのだから、警察を無限に叩く必要がある。

私たちがどのようなソフトウェアを普及させ、どのようなインターネットを使えるようになりたいかという大局的な理解なしに、法律を題材にした論理パズルに熱中することは、滑稽であるどころか有害でもある。

私たちはしばしばシンプルなルールで倫理を再定義したいという誘惑に駆られるが、静的かつ無矛盾な法で世界を覆うことは不可能である。私たちの世界は、立法者と警察と市民による勢力均衡という、不安定かつ動的なプロセスでかろうじて維持されているにすぎない。善良であることは合法であることよりもはるかに重要である