Misskeyの「みつける」はフェアネスもオープンネスも最悪

マストドンのProfile directoryが盛り上がりを見せているのに対して、Misskeyの「みつける」は、フェアネスでもオープンネスでも大きく水をあけられている。

マストドンのProfile directoryとMisskeyの「みつける」は、どちらもURLが /explore であり、コンセプトも共通する。ただし、マストドンではユーザーが最近トゥートした順に配列される (旧仕様。新仕様では新しいユーザーの順を選択できる) のに対して、Misskeyでは「ピン止めされたユーザー」、「人気のユーザー」、「最近投稿したユーザー」、「新規ユーザー」というセクションがこの順にならんでいる。ここで「ピン止めされたユーザー」とは、当初は「公式アカウント」と呼ばれていたものである。「人気のユーザー」は、フォロワー数の順である。

また、Misskeyには「みつける」とは別に「おすすめユーザー」パネルがあり、こちらのほうが古い。「おすすめユーザー」パネルの配列は、フォロワー数の順である。

さて、Misskeyの「みつける」のフェアネスはどうだろうか? 「ピン止めされたユーザー」の実態は公式アカウントなので、フェアネスを議論する意味がない。「人気のユーザー」、すなわちフォロワー数順のリストのフェアネスは最悪である。「最近投稿したユーザー」は、パワーユーザーエフェクトの懸念があり、フェアネスはそこそこ。「新規ユーザー」はフェアであるが、しかし、「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」があるあたりまで、わざわざ下にスクロールするユーザーがどれだけいるだろうか?

というわけで、Misskeyのユーザーディスカバリーメソッドのフェアネスは、ページのはるか下の方にある「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」を除けば、率直に言って最悪ということがわかる。

ここでめいめいによるフォークに言及すると話がややこしくなる。めいめいによるフォークの「みつける」は「おすすめユーザー」というセクションがあり、User Matching in FediverseのAPIを呼んでいる。User Matching in Fediverseは、作者が私なので当たり前だが、レコメンデーションがフェアになるように設計されている。とはいえ、めいめいによるフォークの「みつける」は、「公式アカウント」、「人気のユーザー」のセクションがあってその下に「おすすめユーザー」なので、フェアネスについてはあまり期待できるものではない。

話を戻すと、Misskeyの「みつける」は顕著にアンフェアであり、ついでに「おすすめユーザー」パネルもアンフェアである。例えばmisskey.ioでは、作者のしゅいろと管理者の村上が常にリストの最上位に掲載されている状態である。これは相当に面の皮が厚くないとできない芸当である。マストドンのProfile directoryでは、当初はフォロワー数順の配列が選択できたが、リリースまでにこっそり削除されている。Gargronのようなシャイな青年にとって、自分自身がリストの先頭に居座り続けることは、きまりが悪かったのだろう。

フェアネスではなくオープンネスについて言えば、マストドンのProfile directoryもMisskeyの「みつける」も、表示されるのはローカルなユーザーに限定されていた。マストドンはリモートのユーザーも表示されるように改良を加えたが、まだリリースバージョンには反映されていない。

これまでフェアネスについてはさんざん言及してきたが、オープンネスはなぜ重要なのだろうか? ユーザーディスカバリーメソッドがオープンでなければ、ソーシャルグラフは小集団に分割され、それらの小集団を超えた交流は希薄になる。これはインターネットを電話かLINEグループのように使うことになる。それぞれの閉鎖的な小集団は、民主主義者の集まりであれば民主的に運営されるだろうし、強権的な人物とその追従者の集まりであれば強権的に運営されるだろう。荒くれものの集まりであればニガーやファゴットでは済まないような強い言葉が飛び交うだろうし、攻撃性を嫌悪し集団の和を重んじる小集団であれば、それに従わない人物を一致団結して追い出しにかかることだろう。

それぞれの小集団には良いところもあれば悪いところもある。一般論としては、外部の目が届いているほうが、その集団の悪いところが凝縮されていくのを防ぐことができる。

あるいは、Misskeyの作者とmisskey.ioの管理者は、意図的にアンフェアかつクローズドなコミュニティを志向しているのかもしれない。他の小規模なインスタンスの管理者たちが、そのあたりの機微を理解しているかどうかは、また別の問題である。

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Profile directoryの仕様変更でフェアネス・オープンネスは大幅改善へ

Gargronよ、これまでさんざん悪口を言って本当に悪かった。新しいProfile directoryは、マストドンのレコメンデーション・フェアネスに関するすべての不名誉を一掃する可能性がある。

2019年8月30日頃にマージされたプルリクエストで、Profile directoryの仕様が大幅に変更された。リリースとしてはマストドン3.0に含まれる見込みである。

とにかくびっくりしたのが、Profile directoryにリモートの (他のインスタンスの) ユーザーも掲載されるようになったことである。どうやって他のインスタンスの情報を得ているかというと、これにはちょっとした肩透かしがあって、そのインスタンスですでに観測されているユーザー、典型的には、そのインスタンスのいずれかのユーザーにリモートフォローされているユーザーが、Profile directoryに掲載されるようになる。これは連合タイムラインとだいたい同じ仕組みだ。

ユーザーが配列される順序は、これまでは最近ツイートした順であったのが、これに加えて、新しいユーザーの順が選択できるようになった。なお、リモートのユーザーにとって、新しいユーザーの順とは、アカウントが作成された日時ではなく、そのインスタンスから観測され始めた日時が基準になる。

インターネット (正確にはコンシューマー・ジェネレイティッド・メディア) をテレビのようにしないためにフェアネスがあり、インターネットを電話のようにしないためにオープンネスがある。テレビも電話もそれなりに役に立つこともあるが、インターネットのパワーをそれだけに限定するのはもったいない。

マストドンの標準のユーザーレコメンデーションがリモートのユーザーも含むようになったことで、このレコメンデーションのオープンネスは格段に向上した。いまのところ、デフォルトではローカルな (インスタンス内部の) ユーザーのみが表示されるらしく、それは残念ではあるが、ラジオボタンをワンクリックするだけで、外の世界に目を向けることが可能になる。

では、フェアネスはどうだろうか? 最近ツイートした順の配列は、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックが発生しないものの、わずかにパワーユーザーエフェクトの懸念があり、フェアネスはまあまあである。これに対して、新しいユーザーの順の配列は、まだよく知られていない者を積極的に推挙する仕組みであるため、きわめてフェアである。これも、デフォルトが最近ツイートした順であって新しいユーザーの順ではないところが残念ではあるが、オープンネスだけでなくフェアネスも大幅改善と言ってよいだろう。

ところで、ちょっと細かいことを気にしておくと、Profile directoryに掲載されるリモートのユーザーとは、そのインスタンスですでに観測されているユーザー、典型的には、そのインスタンスのいずれかのユーザーにリモートフォローされているユーザーである。ということは、Profile directoryに掲載されるリモートなユーザーは、すでに他の誰かにフォローされているという制約を含むことになり、これはユーザーディスカバリーがアンフェアになる要因になり得る。これは、連合タイムラインがローカルタイムラインよりもアンフェアであるのと原理は同じである。

とはいえ、 Profile directoryに掲載されるリモートなユーザーは、すでにローカルなユーザーにリモートフォローされているユーザーだけとは限らない。インスタンスがリレーに参加するか、Federation Botを飼うなどすれば、この種のアンフェアネスを軽減することができる。

あと、Profile directoryに掲載されるにはフォロワーを10人集めることが必要であるという評判の悪い仕様が、こっそり廃止されていた。君子豹変す。

実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない

絶対の真理を会得したいとか、無知蒙昧な民衆を教化したいといった強烈な情熱があるのでもない限り、私たちにとって問題なのは、何が真実で何が虚偽であるかではない。むしろ、自分の観測範囲にいる隣人たちが、どのような信念を持っており、それがどのように分布しているかが、より差し迫った問題である。

たとえば、ヘゲモニー的なディスクールが力を持っていて、マイノリティはささやかな反抗を試みるか、もしくは自らの信念を偽って生きているような環境は、私たちにとって暮らしやすい場所だろうか? あるいは、さまざまな対立が、2個の信念の体系に集約されており、どちらか一方を選んで味方することができるような環境はどうだろうか? あるいは、さまざまな争点に対して多数の信念が存在して、ある時は争い、またある時は和解しているような環境はどうだろうか?

議会制民主主義においては、ヘゲモニー政党制、二大政党制、小党分立制の、それぞれの利点と欠点が経験的に知られている。余談だが、個人的には、ヨーロッパ風の小党分立制が優れているように思える。

ところで、「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、あまりにもシンプルな原理に、過大な期待を負わせているように思える。すなわち、私がかつて「フラットデザイン化された神」と軽蔑的に命名した、インターネットの論客にありがちな構造に陥っているのではないか。

多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。なぜならば、優勢なディスクールに属している者は、行動も発言もますます大胆になっていくのに対して、そうでない者たちは、少しずつではあるが確実に、発言のたびに負担が大きくなり、自らの信念を隠したり、周囲に迎合したりすることの必要性が増大していくからである。

私たちにとって、すべての信念が同様に尊重されるユートピアを夢見ることはもはや不可能である。むしろ、私たちは、ヘゲモニー的なディスクールに圧迫されつつある劣勢な信念に、積極的に加担する必要がある。すなわち、天上界において自由や平等を夢想することをやめて、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

そして、私たちは、理性的で、美しく、高潔に見える人々の主張に反対し、暴力的で、偏狭で、醜悪に見える人々の主張を採らなければならない。なぜなら、科学、統計、調査報道といったリソースは、ヘゲモニーを獲得した人々によって、より大規模かつ効率的に動員され得るからである。そうでない人々の武器は、オカルト、アジテーション、ゴシップである。それゆえに、冷静であること、礼儀正しいこと、理性的であることは、ヘゲモニーを内面化した者たちのしるしであり、私たちはそれに幻惑されることを避けなければならない。

一例として、古典的な疑似科学である「水からの伝言」問題を考えてみよう。これは、特定の教師らによる団体が推奨し、複数の小学校で道徳の授業に使われたことから、問題が拡大した。ここで、ちょっとした思考実験がある。科学の信奉者たちは、もし科学的な手法によって厳格にコントロールされた実験系において、「水からの伝言」が主張する通りの実験結果が得られたら、この事実を道徳の授業に利用することを歓迎するだろうか?

これまでの筆致からお分かりいただけると思うが、「水からの伝言」が科学的な事実であったとしても、それを道徳の授業に使うべきでないという結論は何ら後退させるべきではない、というのが私の主張である。子供たちに「きれいな言葉」と「きたない言葉」の区別を強いることは、生活のためにある程度は必要な知識であるとはいえ、民衆から反抗のための語彙を奪うことにほかならないからである。

ここでは一例しか挙げていないが、邪悪な疑似科学とされているもののほとんどは、疑似科学であるがゆえに邪悪なのではなく、まったく別の理由、抽象的に言えば人々の生活とのかかわりにおいて邪悪であるがゆえに、滅ぼされる必要があるものばかりである。疑似科学との戦いに、科学者たちの知識はほとんど必要にならない。そればかりか、疑似科学の信奉者たちの主張が、もし科学的に真実であったとしても、私たちはなお、その主張に反対し続ける必要がある。

念のために逆方向の例も挙げておくと、子宮頸癌ワクチンに反対する運動や、2011年の原発事故によって子供たちの甲状腺癌が増加したと主張する運動は、科学的には誤りであるかもしれないが、民衆の深い心理から出たものである。もし敵が私たちにマシンガンの銃口を向けるならば、私たちはパチンコか投石のような手段で、即席の反抗を試みることができる。だとすれば、敵対者たちが科学を武器として征服を開始したとき、私たちにできることは、即席の魔術によってこれに対抗することである。実際に、オカルトは、科学に対して抵抗を試みる者のための、即席の魔術にほかならない。それは、科学を信奉する者からは疑似科学と呼ばれるかもしれないが、実際には、科学の偽物を作り上げることには、それ相応の意味があると考えるべきだろう。

残念ながら、前述の「特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない」という主張を、私は実践できているとは言いがたい。ある意味では罪滅ぼしとして、Consumer Generated Mediaの分野で、レコメンデーション・フェアネスという概念の普及に尽力してきた。レコメンデーション・フェアネスとは、特定のユーザーにプレゼンスが集中すること (Internet of Celebrities) に反対し、無名の人々を積極的に推挙すべきだという主張である。あるレコメンデーション・エンジンが、すでに多くのフォロワーを獲得しているユーザーをさらにレコメンドするならば、そのレコメンデーション・エンジンは「アンフェア」である。そして、レコメンデーション・エンジンが「ニュートラル」であるとは、あらゆるユーザーを平等に扱うこと、例えば、単にランダムなユーザーを表示するとか、あるいは、あるユーザーに似たユーザーを推挙するなどである。最後に、レコメンデーション・エンジンが「フェア」であるとは、無名のユーザーを積極的に推挙すること、例えば、新しく登録したばかりのユーザーを表示するとか、フォロワー数が少ないユーザーを優先して表示するなどである。

「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、レコメンデーション・フェアネスとのアナロジーで言えば、「ニュートラル」の段階にとどまる。そうではなく、「フェア」であることを目指そうとするならば、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

すべての信念が平等に正しいという境地を「波」にたとえるのは、荘子のいう「気」のイメージを思い起こさせる。書物としての「荘子」は内篇、外篇、雑篇に分けられている。雑篇は荘子の思想であるかどうか怪しいものが押し込められているので、ここでは内篇と外篇について考える。内篇では、詩的で高邁な無為の思想が説かれるのに対して、外篇では、儒家をはじめとする対立する党派への、激しい論難が行われている。私は、このいずれも、真実の荘子を写している文章であると思う。

私がこれまで書いてきた文章にも、詩的で自己完結的なものと、攻撃的で党派的なものがあるようである。しかも、ひとつのトピックについて、前者と後者がこの順に連続して書かれた例が複数ある。このブログでは、LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではないLGBTPZNは攻撃的であるべきだ、ただし遊戯的である場合に限って事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいてはそれはそれとして俺はお前を殺すドヤ街と観覧車電飾に彩られたアベノミクス、小説では、はだしのフクシマカミカゼ神社ハイスクールがそうである。後者を前者に対する蛇足と解することも可能だが、私としては、どちらも意味のある文章であったと考えている。

小説では、文学的な構成の美しさを優先すると、どうしても、詩的で自己完結的なものになりがちである。例えばブログであればその制約は緩和されるけれども、結局のところ、非暴力の言論を闘争の手段とする限りは、その射程にはおのずと限界がある。

Profile directoryのフェアネスはいまひとつ: Gargronはスパムとの戦いに向いてない

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

追記 Good news! フォロワーが多い順の配列は削除された

マストドンにProfile directoryが導入された。これは、あるインスタンスに所属しているユーザーの一覧である。オプトインしたユーザーのみが表示される。この新しいユーザーディスカバリーメソッドに対して、さっそくフェアネスを評価しよう。

Profile directoryの並び順は、最近トゥートした順と、フォロワーが多い順を選択できる。デフォルトは前者である。

最近トゥートした順のフェアネスは、まあ悪くない。このフェアネスはローカルタイムラインとほぼ同等で、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックは発生しないが、パワーユーザーエフェクトがある。

フォロワーが多い順のフェアネスは最悪で、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックが効いてしまう。

さらに悪い知らせがある。このリストに載るためには、フォロワー数が10を超えていることが必要である。しかしながら、新規のユーザーが10人のフォロワーを獲得するには時間がかかる。その前にマストドンを離れていってしまうユーザーも少なくないだろう。

これには悪い前例がある。k52のマストドンインスタンス一覧は、ユーザー数が20人以上のインスタンスしか掲載しないという制限を課した。その結果、ちょうど20個のダミーユーザーを作成したインスタンスも現れている。

なお、dtp-mstdn.jpでは、この制限を緩和し、1名以上のフォロワーがいればProfile directoryに掲載されるようマストドンをカスタマイズしている。

Gargronは、Profile directoryへの掲載をフォロワー数10人以上に限定した理由として、スパム防止を挙げている。しかし、スパマーであれば、10個のダミーユーザーを用意するくらい朝飯前だろう。私はこのことをGargronに@して問い合わせたが、「スパムに対して何も防御しないことはできない」と言って、私の提案を却下した。

これはGargronの悪い癖だ。マストドンはメールアドレスの収集をやめろという話は古くからあるが、Gargronはスパム防止を理由にこれを拒み続けた。果たして、メールアカウントの作成を自動化したスパムが現れ、多くのインスタンスで猛威を振るった。これに対抗するため、マストドン本体では、メールアドレスのドメインブロックの挙動が改良された。また、一部のインスタンスでは、独自機能としてreCAPTCHAを導入している。

スパムを防止するならば、スパマーがすぐに対抗できてしまうような形だけの対策は無意味だ。それどころか、正規のユーザーの正当な利用を、おおいに妨害している。メールアドレスの到達性確認はユーザーにとって煩雑であるし、メールアドレスの収集はプライバシーの問題もある。なかなか10人のフォロワーを集められない新規ユーザーが、Profile directoryに掲載される機会を得られないことも問題だ。

スパムに対抗するために、本質的に意味のある対策はCAPTCHAのみである。MisskeyはreCAPTCHAを導入している。Pleromaは、あまりに弱小勢力であるがゆえに、スパマーに相手にされていないにもかかわらず、2018年12月18日にCAPTCHAを導入した

なぜイシューとプルリクエストに応答しなければならないか、あるいは、プロプライエタリかまってちゃんをチヤホヤするのをやめろ

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

設計図共有サイトの利点と懸念

過去の記事「プラグイン機構は活発な開発者のかわりにはならない」では、マストドンをはじめとする分散SNS実装の開発者たちが、イシューとプルリクエストに十分に応答しているかどうか検討した。しかし、そもそも、イシューとプルリクエストに応答することは、何のために必要なのだろうか? あるいは、ソフトウェアをプロプライエタリにして、イシューもプルリクエストも受け付けないならば、何かまずいことがあるだろうか?

GitHubと、それに似たものたち (GitLabNotABugなど) は、Gitなどのバージョン管理システムを提供するとともに、イシューとプルリクエストを受け付ける機能も提供している。GitHubのようなものを総称するのは難しいが、ここでは仮に「設計図共有サイト」としよう。

イシューを受け付けることで、開発者は、不具合や要望を知ることができる。とんちんかんな質問が来ることもあるが、初心者がどこでつまずくかを観察するために役に立つかもしれない。

プルリクエストは、プログラミングを分業するために良い方法である。また、不具合の修正や新機能の要望も、コードを見ながら議論できるので、イシューよりも意図が明確になる。

とはいえ、設計図共有サイトを使わなくても、これらの利点を得ることは可能である。設計図共有サイトのイシューではなく、SNSをエゴサすることで、不具合と要望を知る開発者は多い。また、CrypkoCrypko先祖辿りの関係は、プロプライエタリなソフトウェアで、プルリクエストに相当することが行われた事例として見ることができる。いずれにせよ、可能であることと、手軽あるいは快適に行えることは異なる。後者のためには、設計図共有サイトにリポジトリを設置すべきだろう。

イシューとプルリクエストを受け付けることに恐怖感をおぼえるプログラマーもいるかもしれない。イシューには妄想や中傷が書き込まれるかもしれない。実際のところ、インターネットにおける言語的コミュニケーションの能力は多様であり、ユーザーにとっては単なる要望か提案にすぎないものが、繊細な開発者にとっては中傷に感じられるということはあり得る。それによって開発のモチベーションが失われることは、過去に何度も繰り返されてきたことである。そのようなユーザーからインターネットやソフトウェアの利用を取り上げることは重大な人権侵害であるが、繊細な開発者たちの置かれている立場にも同情の余地がある。

ソフトウェアの普及のアンフェアネス

ソフトウェアの普及には深刻なアンフェアネスがある。オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックである。

オールディーズエフェクトは、過去に有名になったソフトウェアが、いつまでも有名であり続ける現象である。これは、ユーザーがソフトウェアをなかなか乗り越えないことに由来する。新しいソフトウェアの使用法に習熟するには手間がかかるし、慣れるまでは違和感と戦う必要がある。そのため、ユーザーが別のソフトウェアを試すことに消極的なのは、やむを得ないところがある。

ポジティブフィードバックは、すでに普及しているソフトウェアが、さらに普及するという現象である。例えば、あるソフトウェアのユーザーが、インターネットなどを通じて他の人にもそれを勧めるという原因が考えられる。

古参のソフトウェアと新興のソフトウェアのどちらが優れているかといえば、それは中立的である。古株のソフトウェアは、改良を重ねていけばノウハウが蓄積されていくが、改良を怠れば、新興のソフトウェアにすぐに追い抜かれる。新興のソフトウェアは、先行する古いソフトウェアの成功と失敗から学ぶことができるが、細かいノウハウまでは盗むことができない。いずれにせよ、更新が停滞した古参ソフトウェアと、先行事例をサーベイしない新興ソフトウェアは、使わないほうが良いだろう。

特に、古参のソフトウェアは、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックによって圧倒的に有利な立場にあるのだから、厳しい目で見られるのは当然である。

プロプライエタリかまってちゃんと騎士団たち

では、すでに有名になったソフトウェアの更新が停滞したとき、何が起こるだろうか?

マストドン検索ポータルは、2018年11月18日ごろから動作が停止している。別の検索エンジンで「マストドン検索ポータル」を検索すると、マストドン検索ポータルを心配する意見は多く見られるものの、他の検索エンジン (realtime.userlocal.jp, tootsearch.chotto.moe, mastosearch.osa-p.net) を勧める意見はほとんど見られない。

プロプライエタリなソフトウェアでは、作者の存在がすべてである。もし更新が停止すれば、ユーザーたちは、作者とソフトウェアの行く末を心配することしかできない。マストドン検索ポータルの作者は、もともとインターネットにほとんど姿を現さない。だから、作者がかまってちゃんとして行動したわけではないけれども、ユーザーたちは、インターネットかまってちゃんを囲う騎士団のようにしか行動することができない。

オープンソースなソフトウェアで、設計図共有サイトでリポジトリを公開していれば、リポジトリのアクセス権を移譲して開発を引き継ぐという方法がある。あるいは、作者からまったく応答がないのであれば、勝手にフォークしてデプロイすることも可能である。過去の例では、Halcyonではこの両方が行われた。新都心がHalcyonの開発を放棄したとき、Niklas Poslovskiが開発を引き継ぎ、おさが非公式なフォークをデプロイした。いずれにせよ、ただ作者の復活を祈るのではなく、ユーザーの側から何らかの行動を起こすことが可能である。

ユーザーの欲望と必要の乖離

ソフトウェアに限らず、あらゆるプロダクトは、普及するためにはユーザーの欲望に訴えることが必要である。しかし、それが本当にユーザーのためになっているかどうかはわからない。あるいは、直接のユーザーにとっては利益があっても、他の人々に対しては間接的に悪影響が及ぶことがあるかもしれない。

例えば、Tootdonにはアバターをアニメーションで装飾する機能がある。これは、やっている本人は楽しいかもしれないが、他のユーザーから見れば邪魔である。また、アンフェアなユーザーレコメンデーションは、直接のユーザーがそれを望んだとしても、ソーシャルグラフの成長が不健全になり、その悪影響はFediverse全体に及ぶ。

設計図共有サイトでイシューとプルリクエストを受け付けていれば、このようなevilな機能はイシューが建てられて議論になるだろうし、より穏当な挙動になるように考慮されたプルリクエストが寄せられるだろう。しかしながら、プロプライエタリなソフトウェアは、そのような議論や懸念をシャットアウトして、意図的にオールディーズエフェクトとポジティブフィードバックを引き起こすことができる。

プロプライエタリは自意識過剰なクソ、いますぐ設計図共有サイトにリポジトリを作ってAGPLにしろ

分散SNSのインスタンスの運営にあたっては、ユーザーが運営者に感謝の意を表する機会があっても良いとは思うが、運営者の側は、コンテンツを作っているのはユーザーなのだという、謙虚な認識を持ちたいものである。

しかし、実際には、そのような相互的な関係を醸成することは難しい。運営者とユーザーが、指導者と追従者のような関係になってしまったインスタンスはいくらでもある。ユーザーが少しでも運営者に対する不満を漏らすと、別のユーザーがそれを厳しく非難することも、多くのインスタンスで見られる。

ソフトウェアの開発においても、作者とユーザーは、そのような相互的な関係を持ちたいものだ。実際に使ってくれるユーザーがいなければ、ソフトウェアは単なる記号列にすぎない。ユーザーが愚痴や不満を漏らすことが、ソフトウェアの改良のヒントになるかもしれない。例えば、Debianは、Debianに協力するための多数の方法を提示しており、「プロジェクトに関わるには様々な方法があり、 Debian開発者であることを要求するのはそのごく一部に過ぎません」と表明している。

しかし、プロプライエタリなソフトウェアは、そのような相互的な関係を断ち切る。ソフトウェアの作者は指導者として振る舞うことを望まないかもしれないが、ユーザーたちは追従者として振る舞うことしかできない。

ソフトウェアの普及におけるオールディーズエフェクトとポジティブフィードバックは、もしソフトウェアの更新が停止したとしても、過去に有名になったソフトウェアがいつまでも使い続けられることを意味する。そのとき、プロプライエタリなソフトウェアは、たくさんの無力なユーザーたちを抱えたまま、ただ朽ちていくだけである。しかし、設計図共有サイトにリポジトリを持っていれば、Halcyonの例で見たように、そのような事態に対応する複数の方法が用意されている。

作者たちは何を恐れているのだろう? マストドンに関係するプロプライエタリなソフトウェアの作者には、フリーランスのプログラマーが少なくない。彼らは、自分のソフトウェアが100 %自分の能力の証明であることを顧客に説明するために、他の開発者とユーザーの介入を拒んでいるのだろうか。

もともと有料なソフトウェアならともかく、無料のソフトウェアをプロプライエタリにするのは、本当にやめた方がいい。

ユーザーディスカバリーメソッドは遍在し、そのアンフェアネスからは決して逃れられない

分散SNS Advent Calendar 2018参加記事。

#mmt18 Mastodon Meetup at Tokyo参加報告 | LTLこそがMastodonの本質なのか?を読んだ。このsenookenの記事では、「おすすめユーザー」機能の導入に反対しているように見える。私の立場はある意味では中立的で、フェアな「おすすめユーザー」なら導入するべきであるし、アンフェアな「おすすめユーザー」ならば導入しないほうがいい、という意見である。

レコメンデーション・フェアネスというアイディアは、当初は文字通り、ユーザーレコメンデーションのフェアネスを意味していた。しかし、現在は、ユーザーディスカバリーメソッドのフェアネスとして理解すべきだと考えている。ユーザーディスカバリーメソッドは、未知のユーザーを発見するために利用できるすべてのものである。「おすすめユーザー」パネルのようなわかりやすい形をしたもののほかにも、例えば、マストドンのタイムライン (ホーム、連合、ローカル) も、ユーザーディスカバリーメソッドである。また、自動化されていない、人間が他のユーザーを推挙する行為、senookenの言う「自分が信頼できること、所属するコミュニティなどから口コミ、人づてにたどっていく」行為も、ユーザーディスカバリーメソッドである。だとすれば、これまで挙げてきたすべてのユーザーディスカバリーメソッドについて、アンフェアネスを検討する必要がある。

人間が他のユーザーを推挙する行為のフェアネスは、結局のところ、その人間の心がけ次第である。とはいえ、人間たちの行動を、統計を通して理解することはできる。過去に#followfridayハッシュタグを分析したことがあるので、改めてそれを見てみよう。

#followfridayハッシュタグにおいても、すでに多くのフォロワーを獲得している、悪く言えばインターネットセレブたちが、推挙されやすい傾向にあることがわかった。しかしながら、here is a list of people that I follow and have fewer than 100 followersという定型句に象徴されるように、意図的にフェアなレコメンデーションを行おうとする運動も見られた。両者を相乗平均すると、アンフェアネス値は穏当な値になる。

英語圏においては、リベラルなアーリーアダプターたちが、here is a list of people that I follow and have fewer than 100 followersのような運動を始めることがある。日本語圏では、このような動きはあまり期待できない。「所属するコミュニティなどから口コミ、人づてにたどっていく」という行動が普及してしまった世界では、そのような人の輪から外れた人が、永遠に安息の地にたどりつくことができない。「永遠に」は言い過ぎにしても、スタートラインをかなり遠くに設定されてしまうことだろう。

人間によるアンフェアなユーザーディスカバリーメソッドを避けることができない状況においては、自動化されたフェアなユーザーレコメンデーションを導入することで、この状況を緩和する必要がある。もちろん、自動化された、なおかつアンフェアなユーザーレコメンデーションは最悪である。自動化も悪くないということを人間たちに納得してもらうには、まだまだ長い時間が必要になりそうだ。

#followfridayはフェアなユーザーディスカバリーメソッド、よりフェアにするための工夫も

マストドンのユーザーディスカバリーメソッドのうち、人手で作成されたリストは、アンフェアであることが知られている。このことは定性的な評価で予想され、定量的な評価でも裏付けられている。

ところで、英語圏のマストドンには、#followfridayという風習がある。これは、特定のハッシュタグを用いて、他のアカウントを推薦するという風習である。この風習をユーザーディスカバリーメソッドとして見ると、人手で作成されたリストの一種であると言える。ということは、このハッシュタグも、アンフェアなユーザーディスカバリーメソッドであると言えるだろうか?

そこで、以下のような手順で、定量的な観測を試みた。観測範囲はPeers APIで到達可能なインスタンスのローカルタイムラインである。2018年8月17日0時から18日6時ごろ (協定世界時) にかけて観測を行った。そして、#followfridayハッシュタグを持つトゥートでメンションされているユーザーを抽出した。そして、それらのユーザーのフォロワー数の幾何平均を、#followfridayハッシュタグのアンフェアネス値とした。

結論から言うと、#followfridayハッシュタグのアンフェアネス値は182.3であった。他のユーザーディスカバリーメソッドと比較すると、これは十分にフェアである。

また、#followfridayハッシュタグで推挙されたユーザーのうち、フォロワー数が多いものを順に挙げる。重複があるのは、複数のトゥートで推挙されたユーザーを重複して挙げているためである。

  1. Curator@mastodon.art (7927)
  2. nolan@toot.cafe (4245)
  3. jk@mastodon.social (3542)
  4. jk@mastodon.social (3542)
  5. aral@mastodon.ar.al (2739)
  6. sebsauvage@framapiaf.org (2731)
  7. aparrish@mastodon.social (2393)
  8. CobaltVelvet@octodon.social (2325)
  9. davidrevoy@framapiaf.org (2060)
  10. cypnk@mastodon.social (1966)

このように、少数ではあるが、フォロワー数の多いユーザーが#followfridayで推挙されることもある。#followfridayでユーザーを推挙するにあたっては、フォロワー数の多いものを避けるようにすれば、よりフェアなユーザーディスカバリーを提供できることが期待される。また、Curator@mastodon.artが、フェアネスを重視した「キュレーション」を行うかどうかも、注目に値する。

また、今回の観測では、here is a list of people that I follow and have fewer than 100 followersというフレーズを#followfridayハッシュタグとともに使用している例が見られた。これは、ユーザーディスカバリーをフェアにするための、直接的かつ効果的な方法である。