食べログは評価の分散が小さいと得点が3.22に底上げされるかもしれない

概要

食べログの得点は、ユーザーが入力した評価の分散が小さく、かつ得点が3.20未満のとき、3.22に底上げされる処理があるかもしれない。あまり自信ない。

背景

食べログの掲載店舗の得点について、インターネットのまとめサイトでは、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言がしばしば掲載されてきた。さらに、この仮説を統計的な手法で実証したと主張するブログ記事が出現し、話題となった。これに対して、食べログの運営者である株式会社カカクコムは、この疑惑を否定するプレスリリースを発表した。また、この件について検証を試みた複数の記事がブログなどで掲載されている。

井上明人は、店舗のレビューの数によって得点の最頻値が異なることを示し、少なくとも4種類の異常なピークが存在することを明らかにした。以下の図は井上明人からの引用である。

20191012-00146614-roupeiro-008-2-view

この図から読み取れる4種類のピークは、3.0のすぐ上、3.2のすぐ上、3.6のすぐ下、3.8のすぐ下である。

これらの異常値のうち、3.01のピークについては、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理の存在が示唆されている。では、他の3種類のピークについても、定性的な理解を進めることが可能だろうか?

データの収集

今回の調査では、2019年10月14日時点に収集したデータを使用した。食べログの掲載店舗のうち、宮城県仙台市に立地し、なおかつレビュー数が30以上40以下であるものを調査対象とし、これらの店舗の得点とレビュー数を収集した。

また、これらの店舗のうち、得点が3.22ちょうどであるものと、得点が3.20未満であるものについて、ユーザーによる評価点を収集した。ユーザーによる評価点は、0.5点刻みのビン (1.0以上1.5未満、1.5以上2.0未満、2.0以上2.5未満、……、4.5以上5.0未満、5.0ちょうど) ごとの人数を収集した。これは、以下の図のような画面を目視することで収集できる。

user-evaluation-example

データの収集はスクレイピングを用いず、ウェブサイトの目視によった。

統計的な処理

以下の図は、レビュー数が30以上40以下である店舗の得点のヒストグラムである。ヒストグラムのビン幅は0.01である。このビン幅を選択したのは、食べログの得点が0.01を最小単位として表示されるためである。この図は得点が3.00以上3.40未満の店舗のみを示している。得点が3.40以上の店舗もわずかに存在するが、この図では省略した。得点が3.00未満である店舗は、実際に存在しない。

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この図から読み取れるように、3.22に異常なピークがある。レビュー数が30から40あたりの領域において、3.2のすぐ上に異常なピークがあることは、井上明人 (前掲) の調査ですでに明らかである。今回の調査でもそれが裏付けられた。

次に、得点が3.22である店舗群と、得点が3.20未満である店舗群について、ユーザーが入力した評価点の分布を調査する。ここでは、評価点を入力したユーザーに占める、2.0点以上4.0点未満の評価点を入力したユーザーの割合を、評価点のばらつきのなさの指標として用いる。

以下の表は、得点が3.22である店舗群と、得点が3.20未満である店舗群について、評価点のばらつきのなさを比較した表である。表の第1列は店舗の得点である。第2列はレビューの数である。第3列は、得点が3.22ちょうどであればX印を印字し、そうでなければ空欄とした。第4列は、評価点のばらつきのなさ、すなわち、2.0点以上4.0点未満の評価点を入力したユーザーの割合である。

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この表から読み取れることは、「評価点のばらつきのなさ」の閾値を0.900あたりに見ると、それよりも上にX印が集中していることである。ただし、集中しているといっても、例外も多く、すべてのデータを完全に説明できるものではない。

考察

得点を10進法で表記したときの心理的な影響から、得点が3.20を下回った店舗に対して、何らかの条件によって、得点を3.22まで底上げする処理が存在すると推測した。また、食べログの公式ドキュメントでは、「評価が割れているお店」の処理を低く抑えているかのような記述があることから、得点を3.22に底上げする処理は、ユーザーによる評価点のばらつきが小さい店舗に対して行われていると推測した。

実際に、得点が3.22である店舗は、評価点のばらつきが小さい店舗が多く、得点が3.20未満である店舗は、評価点のばらつきが大きい店舗が多い。しかしながら、この仮説によってすべてのデータを説明できているわけではない。特に、この処理が、評価点のばらつきが小さい店舗への救済措置であると仮定するならば、評価点のばらつきが小さいにもかかわらず得点が3.20未満にとどまっている店舗の存在は、たとえ1件であっても問題になる。

これらの考察から、得点が3.20未満である店舗のうち、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さい店舗は、得点が3.22に底上げする処理が存在するかもしれない、ただし確信は持てない、ということが言えるであろう。

議論

今回の一連の騒動では、食べログの得点には3.6と3.8に異常な特徴が存在するという統計的な分析と、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言を結び付けた主張を行った者がいたことから、人々の耳目を集めることとなった。しかしながら、井上明人 (前掲) によれば、食べログの得点には少なくとも4種類の異常なピークが存在する。そのうち2種類の特徴だけを取り出して、流言飛語の類と結びつけるのは、いささか軽率であろう。

このような騒動に立ち向かうためには、統計的な処理をもてあそぶだけでなく、定性的な理解を進めることが欠かせない。墓場人夜 (前掲) は、3.01のピークについて、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在することを示し、これを低得点の店舗に対する救済措置であると解釈した。今回の調査では、3.22のピークについて、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さな店舗の得点を3.22まで底上げする処理が存在するという解釈を示した。ただし、この解釈によってすべてのデータを説明できるわけではなく、あくまでも、このような処理の存在を示唆するにとどまった。

課題

得点が3.22ちょうどである店舗群に対して、得点が3.20未満である店舗群を対照群としたのは、あまり良い判断ではなかった。たぶん3.20と3.21も対照群に含めるべきだったと思う。食べログの得点調整アルゴリズムの設計者が、10進法の切りの良い数字に心理的な効果を認めているという仮定は、あくまでも推測であって、明確な根拠があるわけではない。

まとめ

食べログの得点分布に存在する複数の異常な特徴のうち、3.22のピークについて、ユーザーが入力した評価点のばらつきが小さな店舗の得点を3.22まで底上げする処理が存在するという解釈を示した。

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食べログの得点は3.00を下回ると3.01に底上げされる

概要

食べログの得点は3.00を下回ると3.01に底上げされることが分かった。

背景

食べログの掲載店舗の得点について、インターネットのまとめサイトでは、「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言がしばしば掲載されてきた。これを受けて、藍屋えんは、統計的手法によりこの仮説を実証したと主張した。これに対して、konkon3249は、店舗が会員店舗であるか否かで得点の傾向に違いが見られないことから、食べログによる得点の処理が会員店舗への利益誘導ではないことを示した。さらに、井上明人は、店舗のレビューの数によって得点のピークが異なることから、食べログによる得点の算出は複数の閾値を用いた複合的な処理であることを示した。

トデスキングと井上明人 (前掲) が引用しているように、食べログは公式ドキュメントで得点の算出方法を明らかにしている。核心部分は「悪意のある不正な業者」に悪用されることを防ぐためとして非公開としているが、公開されている部分だけでも多くの情報を含んでいる。

食べログの得点が複雑な処理を経て算出されていることは、食べログの公式ドキュメントが自ら明らかにしている通りである。では、食べログの得点の算出アルゴリズムは、まとめサイトと藍屋えんが主張するような、会員店舗 (食べログの運営者による用語では「有料集客サービス」) への利益誘導に利用されているのだろうか? それとも、すべての処理が、純粋な善意 (あるいは、サービスの向上という営利企業として当然の行為) によって説明可能なのであろうか?

データの収集

今回の調査では、2019年10月10日時点に収集したデータを使用した。食べログの掲載店舗のうち、山形県米沢市に立地し、なおかつレビュー数が2以上20以下であるものを調査対象とし、これらの店舗の得点とレビュー数を収集した。データの収集はスクレイピングを用いず、ウェブサイトの目視によった。

統計的な処理

以下のグラフは、店舗のレビュー数と得点の関係を示した散布図である。横軸がレビュー数、縦軸が得点である。

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この図より、レビュー数が20以下の領域では、レビュー数が得点にほぼ線形に重畳されていることが分かる。これは、食べログの公式ドキュメント (前掲) のいう「評価が集まらないと点数が上がらない」という説明を裏付けるものである。

また、得点が3.00を下回る店舗が存在しないことは、顕著な特徴である。

次に、以下のグラフは、レビュー数が2以上5以下である店舗についての、得点のヒストグラムである。ヒストグラムのビン幅は0.01である。このビン幅を選択したのは、食べログの得点が0.01を最小単位として表示されるためである。

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この図より、得点が3.01である店舗が顕著に多いことが読み取れる。

なお、井上明人 (前掲) の調査でも、レビュー数が25以下の領域では得点の最頻値は3.01であることが示されている。以下の図は井上からの引用。

20191012-00146614-roupeiro-008-2-view

次に、以下のグラフは、レビュー数が6以上20以下である店舗についての、得点のヒストグラムである。他の条件は前の図と同じである。

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レビュー数が6以上20以下である店舗については、3.01に顕著なピークは見られない。

考察

得点が3.00未満の店舗が存在しないことと、レビュー数が2以上5以下である店舗については得点が3.01である店舗が顕著に多いことから、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在することが推測できる。

ここで、レビュー数が20以下の領域ではレビュー数が得点にほぼ線形に重畳されているという特徴を思い出そう。すると、レビュー数が少ない店舗はそのままでは得点が3.00を下回ることが多く、それにより、それを3.01に底上げされる処理も多く行われていると推測される。これに対して、レビュー数の多い店舗では、得点が3.00を下回ることは珍しく、それを3.01に底上げされる機会も少ないと推測される。

実際に、レビュー数が2以上5以下のヒストグラムでは、もし3.00未満の領域にもグラフが続いているとすれば、その領域にも長く裾が伸びていて、少なくない数の店舗がそこに含まれるように見える。さらに楽観的に見れば、そのような「自然な」分布における得点が3.00未満の店舗の数と、得点が3.01のピークに積み上げられている店舗の数は、おおよそ等しいようにも見える。

一方、レビュー数が6以上20以下のヒストグラムでは、得点の分布を3.00未満の領域に延長したとしても、そこに含まれる店舗の数は少ないだろう。先ほどと同様に楽観的な見方をすれば、こちらのヒストグラムでも、「自然な」分布における得点が3.00未満の店舗の数と、得点が3.01のピークに積み上げられている店舗の数がほぼ等しいように見える。

これらの特徴から、得点が3.00未満の店舗が存在しないというデータと、レビュー数が2以上5以下の領域では得点が3.01である店舗が顕著に多いというデータを結び付け、得点が3.00未満の店舗の得点を3.01に底上げする処理が存在するという結論を得ることが自然であると考えられる。

議論

得点が3.00未満の店舗は得点を3.01に底上げするという仕様は、食べログに掲載された店舗の立場からすれば、恩恵の多い救済措置であろう。しかし、このような大胆な仕様を、ユーザーへの十分な説明なしに導入することは、ユーザーの立場からすれば不遜に感じられるかもしれない。

実際のところ、ユーザーが入力した生の得点ではなく、それを複雑に処理した得点を提示するという食べログの方針は、いささかパターナリスティックに感じられる。とはいえ、食べログにとってユーザーと店舗とどちらが重要な関係先であるかといえば、店舗を優先すべきであるのは当然である。店舗の立場からすれば、インターネットの存在に勝手に点数をつけられることは感情を著しく害する場合が少なくないし、経済的な不利益に直結する場合もある (文春オンラインの記事などを参照)。

今回の一連の騒動では、まず藍屋えんが3.6と3.8のアノマリー (異常な現象) を統計的な手法で明らかにしたうえで、それを「評価3.8以上は年会費を払わなければ3.6に下げられる」という流言を立証したものとして論じた。しかし、konkon3249は、会員店舗であるか否かという情報を付け加えることで、まったく別の解釈を示した。井上明人は3.6と3.8のほかにも複数のアノマリーが存在することを示し、食べログの得点の算出方法については多面的な理解が必要であることを示した。私の今回の調査では、井上明人が示した複数のアノマリーのうち3.01のピークについて、低得点の店舗に対する救済措置であるという解釈を示した。

今回の騒動を振り返ると、食べログの得点の算出が複雑な処理を経ていることは公式ドキュメントで明らかにされているのだから、争点があるとしたら、それらの処理が、例えば金銭の授受をともなうような不正であったかどうかという点に尽きる。この点については統計的な処理だけでは決して明らかにすることはできず、食べログの仕様についての定性的な理解が不可欠である。

食べログの得点の分布における複数のアノマリーのうち少なくとも一つ、すなわち3.01のピークについては、得点が3.00を下回る店舗に対する救済措置であるという解釈が妥当であることが、今回の調査で示された。驚き最小の原則からすれば、他のアノマリーについても、不正ではなく正当な理由のある処理であると推察すべきだろう。

一般に、統計的な処理から知識を得るためには、定性的な理解による裏付けが欠かせない。定性的な理解を欠いたまま、統計的な処理だけに耽溺すれば、今回の騒動で藍屋えんがしたように、たまたま発見した異常な現象を根拠に、安易に流言飛語を信用することになりかねない。

まとめ

食べログの得点には複数の奇妙な特徴があることが知られている。今回の調査では、そのうち3.01のピークについて、得点が3.00を下回る店舗は3.01に底上げされるという処理が存在することを示した。また、これを低得点の店舗に対する救済措置であると解釈すれば、この処理は正当な仕様であり、不正な利益誘導ではないことを示した。

Misskeyの「みつける」はフェアネスもオープンネスも最悪

マストドンのProfile directoryが盛り上がりを見せているのに対して、Misskeyの「みつける」は、フェアネスでもオープンネスでも大きく水をあけられている。

マストドンのProfile directoryとMisskeyの「みつける」は、どちらもURLが /explore であり、コンセプトも共通する。ただし、マストドンではユーザーが最近トゥートした順に配列される (旧仕様。新仕様では新しいユーザーの順を選択できる) のに対して、Misskeyでは「ピン止めされたユーザー」、「人気のユーザー」、「最近投稿したユーザー」、「新規ユーザー」というセクションがこの順にならんでいる。ここで「ピン止めされたユーザー」とは、当初は「公式アカウント」と呼ばれていたものである。「人気のユーザー」は、フォロワー数の順である。

また、Misskeyには「みつける」とは別に「おすすめユーザー」パネルがあり、こちらのほうが古い。「おすすめユーザー」パネルの配列は、フォロワー数の順である。

さて、Misskeyの「みつける」のフェアネスはどうだろうか? 「ピン止めされたユーザー」の実態は公式アカウントなので、フェアネスを議論する意味がない。「人気のユーザー」、すなわちフォロワー数順のリストのフェアネスは最悪である。「最近投稿したユーザー」は、パワーユーザーエフェクトの懸念があり、フェアネスはそこそこ。「新規ユーザー」はフェアであるが、しかし、「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」があるあたりまで、わざわざ下にスクロールするユーザーがどれだけいるだろうか?

というわけで、Misskeyのユーザーディスカバリーメソッドのフェアネスは、ページのはるか下の方にある「最近投稿したユーザー」と「新規ユーザー」を除けば、率直に言って最悪ということがわかる。

ここでめいめいによるフォークに言及すると話がややこしくなる。めいめいによるフォークの「みつける」は「おすすめユーザー」というセクションがあり、User Matching in FediverseのAPIを呼んでいる。User Matching in Fediverseは、作者が私なので当たり前だが、レコメンデーションがフェアになるように設計されている。とはいえ、めいめいによるフォークの「みつける」は、「公式アカウント」、「人気のユーザー」のセクションがあってその下に「おすすめユーザー」なので、フェアネスについてはあまり期待できるものではない。

話を戻すと、Misskeyの「みつける」は顕著にアンフェアであり、ついでに「おすすめユーザー」パネルもアンフェアである。例えばmisskey.ioでは、作者のしゅいろと管理者の村上が常にリストの最上位に掲載されている状態である。これは相当に面の皮が厚くないとできない芸当である。マストドンのProfile directoryでは、当初はフォロワー数順の配列が選択できたが、リリースまでにこっそり削除されている。Gargronのようなシャイな青年にとって、自分自身がリストの先頭に居座り続けることは、きまりが悪かったのだろう。

フェアネスではなくオープンネスについて言えば、マストドンのProfile directoryもMisskeyの「みつける」も、表示されるのはローカルなユーザーに限定されていた。マストドンはリモートのユーザーも表示されるように改良を加えたが、まだリリースバージョンには反映されていない。

これまでフェアネスについてはさんざん言及してきたが、オープンネスはなぜ重要なのだろうか? ユーザーディスカバリーメソッドがオープンでなければ、ソーシャルグラフは小集団に分割され、それらの小集団を超えた交流は希薄になる。これはインターネットを電話かLINEグループのように使うことになる。それぞれの閉鎖的な小集団は、民主主義者の集まりであれば民主的に運営されるだろうし、強権的な人物とその追従者の集まりであれば強権的に運営されるだろう。荒くれものの集まりであればニガーやファゴットでは済まないような強い言葉が飛び交うだろうし、攻撃性を嫌悪し集団の和を重んじる小集団であれば、それに従わない人物を一致団結して追い出しにかかることだろう。

それぞれの小集団には良いところもあれば悪いところもある。一般論としては、外部の目が届いているほうが、その集団の悪いところが凝縮されていくのを防ぐことができる。

あるいは、Misskeyの作者とmisskey.ioの管理者は、意図的にアンフェアかつクローズドなコミュニティを志向しているのかもしれない。他の小規模なインスタンスの管理者たちが、そのあたりの機微を理解しているかどうかは、また別の問題である。

Profile directoryの仕様変更でフェアネス・オープンネスは大幅改善へ

Gargronよ、これまでさんざん悪口を言って本当に悪かった。新しいProfile directoryは、マストドンのレコメンデーション・フェアネスに関するすべての不名誉を一掃する可能性がある。

2019年8月30日頃にマージされたプルリクエストで、Profile directoryの仕様が大幅に変更された。リリースとしてはマストドン3.0に含まれる見込みである。

とにかくびっくりしたのが、Profile directoryにリモートの (他のインスタンスの) ユーザーも掲載されるようになったことである。どうやって他のインスタンスの情報を得ているかというと、これにはちょっとした肩透かしがあって、そのインスタンスですでに観測されているユーザー、典型的には、そのインスタンスのいずれかのユーザーにリモートフォローされているユーザーが、Profile directoryに掲載されるようになる。これは連合タイムラインとだいたい同じ仕組みだ。

ユーザーが配列される順序は、これまでは最近ツイートした順であったのが、これに加えて、新しいユーザーの順が選択できるようになった。なお、リモートのユーザーにとって、新しいユーザーの順とは、アカウントが作成された日時ではなく、そのインスタンスから観測され始めた日時が基準になる。

インターネット (正確にはコンシューマー・ジェネレイティッド・メディア) をテレビのようにしないためにフェアネスがあり、インターネットを電話のようにしないためにオープンネスがある。テレビも電話もそれなりに役に立つこともあるが、インターネットのパワーをそれだけに限定するのはもったいない。

マストドンの標準のユーザーレコメンデーションがリモートのユーザーも含むようになったことで、このレコメンデーションのオープンネスは格段に向上した。いまのところ、デフォルトではローカルな (インスタンス内部の) ユーザーのみが表示されるらしく、それは残念ではあるが、ラジオボタンをワンクリックするだけで、外の世界に目を向けることが可能になる。

では、フェアネスはどうだろうか? 最近ツイートした順の配列は、オールディーズエフェクトとポジティブフィードバックが発生しないものの、わずかにパワーユーザーエフェクトの懸念があり、フェアネスはまあまあである。これに対して、新しいユーザーの順の配列は、まだよく知られていない者を積極的に推挙する仕組みであるため、きわめてフェアである。これも、デフォルトが最近ツイートした順であって新しいユーザーの順ではないところが残念ではあるが、オープンネスだけでなくフェアネスも大幅改善と言ってよいだろう。

ところで、ちょっと細かいことを気にしておくと、Profile directoryに掲載されるリモートのユーザーとは、そのインスタンスですでに観測されているユーザー、典型的には、そのインスタンスのいずれかのユーザーにリモートフォローされているユーザーである。ということは、Profile directoryに掲載されるリモートなユーザーは、すでに他の誰かにフォローされているという制約を含むことになり、これはユーザーディスカバリーがアンフェアになる要因になり得る。これは、連合タイムラインがローカルタイムラインよりもアンフェアであるのと原理は同じである。

とはいえ、 Profile directoryに掲載されるリモートなユーザーは、すでにローカルなユーザーにリモートフォローされているユーザーだけとは限らない。インスタンスがリレーに参加するか、Federation Botを飼うなどすれば、この種のアンフェアネスを軽減することができる。

あと、Profile directoryに掲載されるにはフォロワーを10人集めることが必要であるという評判の悪い仕様が、こっそり廃止されていた。君子豹変す。

非対称な倫理だけがアクチュアルで、可能な行動はおそらくデカダンスしかない

歴史的に言えば、私たちは常に、どうにもならない権力の非対称を発見してきた。マルクス主義者が資本家と労働者を、ポストコロニアリストが征服者と被征服者を、日本の格差社会論者が正規雇用者と非正規雇用者を発見したように。

もっと時間と場所を限定して、たとえば2019年の日本の首都圏に生きる私たちは、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、というように、いくらでも深刻な非対称を挙げることができる。

このような非対称を不正であるとして、これを暴力によって転覆したり、漸進的に格差を是正したりする行動は、もちろん可能である。しかし、そのような革命はいつ実現するかわからないし、永遠に実現しないかもしれない。革命を夢想するだけでなく、革命のために行動することですら、それだけでは革命の成就のために十分ではない。実際には、革命家でさえも旧体制のもとで当座の生活をやっていく必要がある。

では、このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?

もっとあり得そうなことは、このような非対称性を糊塗したり、見なかったことにしたり、何らかのトリックによって解消したことにすることである。

すなわち、優位者と劣位者を共通のルールのもとにおいて、自由に行動させれば、それは公正であるという信仰がある。もしそれが法であれば、フラットデザイン化された神であるとか、法フィリアであるというように、このブログで何度か厳しい批判を加えてきた。あるいは、それが貨幣経済であれば、だいたいリバタリアンの主張に近く、要は年収のデカいやつが正しいという倫理である。いずれにせよ、法は政権党の支持者と左派政党の支持者にとって平等ではないし、貨幣経済は金持ちと貧乏人にとって平等ではない。

人間の本質として、私たちはどうしても努力と競争を愛するのであり、シンプルなルールのもとで競争して優劣を決定したいという深い欲望がある。すなわち、社会をスポーツによって覆いたいという欲望である。

しかしながら、努力と競争がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは広く知られている。私たちはさまざまな理由から、苦痛に満ちた絶望的な戦いに対しても、努力と克己心で挑もうとしてしまう。そして、私たちの現実にあるさまざまな非対称を見て見ぬふりをしながら、努力というよりは消耗を続けることになる。

ここで私たちは、これまでの問題を3通り (実質的には2通り) に分割することにする。これまでの問題は、「このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?」であった。これを3通りに分割すると、

  1. 優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か。
  2. 優位者はいかなる倫理を持つべきか。
  3. 劣位者はいかなる倫理を持つべきか。

このうち、項番2「優位者はいかなる倫理を持つべきか。」は無視する。だから、当初の問題は、形式的には3通り、実質には2通りに分割される。

優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か? すでに触れたように、法または貨幣経済にそれを求めることは、絶望的である。リバタリアンたち、あるいは、もっと露骨な拝金主義者たちがいかに美辞麗句をならびたてようとも、賃労働がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは、あらゆる患者と医療者にとって疑いようもない日常である。

多少たりとも私が希望を持っているのは、優位者と劣位者のあいだに、相互性と連帯を回復することである。ひどく限定された分野における取り組みであるが、ソフトウェアの作者と利用者との相互性あるいは連帯は、オープンソースによって回復することが可能である。あるいは、劣位者のための戦術として、泣き落としであるとか、捨て身の脅し (相手によっては効果がないかもしれないが、失踪や自傷など) といった攪乱行動によって、優位者のメンタリティが多少たりとも融和的になる可能性がある。

では、劣位者はいかなる倫理を持つべきか? これまでさんざん (多少たりとも悲観的な気分になりながら) 述べてきたように、革命を待望したり、革命のために行動することすら、私たちにとってアクチュアルではない。あるいは、もっと悪いことだが、優位者たちの倫理観を内面化して、自由と競争を愛するべきでもない。法にも貨幣経済にも、あるいは、その他のあらゆる、シンプルで美しく見えるルールにも、心を奪われるべきではない。

私が現時点で言えることは、劣位者にとってはすべての倫理が無効であるということである。たとえば、発達障害者にとっては、健常者たちが作ったルールとマナーは、そもそも遵守することが技術的に不可能である。だから、そのようなルールとマナーを内面化して、できもしないことに苦しむべではない。また、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子というように、反抗がきわめて難しい極限状態においては、捨て身の攪乱戦法を含むすべての行動が妥当なのであり、それすら成功の見込みの薄い絶望的な試みにすぎない。

劣位者にとって倫理があるとすれば、それはデカダンスであるべきである。あらゆる倫理はすでに無効であるばかりでなく、本質的に無効であるべきである。優位者たちの倫理、あるいは、優位者と劣位者の非対称を詐術によって除去しようとする倫理を、内面化すべきではない。ここで、倫理を内面化すべきでない、ということは、不服従とも言い換えられる。行動のレベルでも、あるいは、可視的な行動があまりに危険である場合にはスピリチュアルなレベルであっても、私たちの採るべき道は不服従であり、倫理の無効であり、デカダンスである。

私たちが友とすべきものは飲酒、喫煙、そして向精神薬である。それは努力と競争ではあり得ない。法、公正、自由、ルール、平等といった美辞麗句も、決して私たちの助けにはならない。革命も、格差の是正も、遠い未来に予感されるべき希望としては役に立つが、私たちの生活にとっては遅すぎる。

だから、もしインターネットの存在に物を贈るなら、酒かローターが良い。

非対称な倫理の可能性について

3.distsn.orgで文字を打ち込んでいたら標記のような着想があったので、とりあえずメモ。

せる師。

同害報復の原理好きだしその意思が備わっていることは社会の秩序の維持に重要だとは思うがそれをすることに実際メリットがあるかといえばないまではわかる(するけど)
倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要であることもわかる(それはそれとして行動は常に自分に徳があるようにする)

私。

せる師は「倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要である」と言ってるけど、2019年の私たちにとっては非対称な倫理体系のほうがアクチュアルで、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、などをやっていく必要がある。

私。

私たちの置かれている状況に限って言えば、倫理があるとすればそれはどこまても本質的に非対称であるし、そのように構築せざるをえない。

私。

身近なところでいえばアルファツイッタラーと零細ツイッタラー、ソフトウェアの作者とユーザー、インスタンスの鯖缶と住民みたいな論点もやっていきがあった。

私。

寝て起きてからまだ非対称な倫理ということを考えていて、たとえば芸術の創出に寄与し得る者とそうでない者が存在することは認めざるを得ない、そこで芸術の創出者と消費者のあいだに相互性であるとか連帯は存在し得るかという問いがある。実際のところ、それは二次創作をめぐる学級会みたいな形で議論されているし、実践もされているわけです。

せる師。

例えば芸術は消費者と製作者両方によって成り立っているのだから両者とも尊重すべきとか対等であれということだろうか

私。

本質的に対等であり得ない関係のなかに、いかにして相互性と連帯を導入するか、ということが言いたかった。

私。

ソフトウェアの作者とユーザーの関係について、そのようなことを論じた文があるのですが、プログラミングをやってないとよくわからないかもしれません。
なぜイシューとプルリクエストに応答しなければならないか、あるいは、プロプライエタリかまってちゃんをチヤホヤするのをやめろ

芸術の創出者と消費者という問題には伏線があったかもしれない。京アニの火事について、才能あるクリエイターが死ぬことが、そうでない人が死ぬことよりも悲しいと思うことは倫理的に妥当か? というような問いがあった。

せる師。

人が死ぬのはどんなことで悪いと思う上で才能がある人々と生まれるはずだった作品が消えてしまったのが悲しくて、感覚としては妊婦さんを殺すなみたいなのに近いのかもしれない

私。リバタリアンが嫌い。

私はリバタリアンが本当に嫌いなので、いつかせる師とも敵になるかもしれぬ。

私。相互性と連帯。

俺らの発達だと人の心が分からないので社会の相互性と連帯に参画することが難しい、かといってリバタリアンの世界では職がなくて野垂れ死んでしまう、おそらく前者のほうがまだ生存の見込みがありそうというのが私の見立てです。

私。速が出てきた。

俺らの発達にもいろいろあって、自責傾向が強いとリバタリアンになって健常者と競争して勝とうとしてしまうし (いや勝てるわけないじゃん!!!)、自閉傾向が強いとシンプルなルールで健常者とのAPIを定義できると信じてしまう (健常者が俺らに対してルールを守るわけないじゃん!!!) というのがあり、多動かつ他責傾向がカンストしてる場合に限って、リバタリアニズムに反抗することが可能になる。

せる師。草の根保守ならGabとかfreespeechextremist.comあたりと仲良くなれそう。

草の根保守などをやったのでリバタリアンの倫理わかった

せる師。リバタリアン嬉しいのか。

リバタリアンの倫理好きなのでそう指摘されたのちょっと嬉しい。わたしは一人でも生き抜いていられる人になりたいし武器を研いで行くぞ!

英語圏の苦悩と日本語圏の冷淡: Gabをめぐる東西の深い無理解

Gabがマストドンのフォークに移行したことで、いろいろと騒動になっているようだが、まずは私たちは、過去から学ぶ必要がある。

みなさんはGNUsocial AXISを覚えているだろうか? 2017年4月のマストドンブームの時期に、Gargronが複数のGNU socialのインスタンスをブロックしたことが騒動になった。特に問題なのは、Gargron自身のインスタンスであるmastodon.socialのみならず、複数のインスタンスが「ブロックリスト」を共有し、それに追随したことである。ブロックされた側である、GNU socialの複数のインスタンスは、GNUsocial AXISを自称し、The GNUsocial Axis Resolutionsという檄文を発表した。アノニマスもそれに便乗して見解を表明している

Pleromaは文化的にはGNUsocial AXISの流れを汲んでおり、GNUsocial AXISの関係者がPleromaの開発者をしていることが多い。特に、Pleromaの創始者であるlainが代表例である。前述のThe GNUsocial Axis Resolutionsでも、Pleromaの開発が活動方針の一つとして言及されている。とはいえ、Pleromaの開発者にも多様性があり、例えばkaniiniは、ヘイトスピーチの規制と厳格なモデレーションを主張している。

Gargronとlainはいずれもドイツ在住であり、歴史修正主義それ自体が違法である環境に置かれている。だから、この二人の行く道を分けたのは、法的問題というよりは、人間としての信条によるところが大きいと思われる。

ところで、話は変わって、SwitterHumblrについても触れておこう。2017年4月のブームが過ぎたあとで参入して、大きく成長したインスタンスといえば、これらを挙げないわけにはいかない。同様のコンセプトのインスタンスは複数あり、例えばsinblr.comもにぎわっている。これらは、アメリカ合衆国がセックスワーカーのインターネットの利用を規制したことと、Tumblrがポルノを禁止したことへの反発が原動力になっている。ポルノがコンセプトのインスタンスといえば、マスタベ丼とやってることは変わらないのだが、ちゃんとポルノをアップロードするユーザーがたくさんいる (無断転載を含めて!) のがおもしろい。やはり刑法175条が悪い気がする。いずれにせよ、私はポルノを愛好しているが、お上品な人たちからはあまり快く思われないだろう。世界の嫌われ者はネトウヨだけではない。

ポルノといえば、PawooBaraag、あるいはpl.smuglo.liのように、児童ポルノ (安心してほしい。ここで扱われているのは、少なくとも日本では合法である) が主要なコンテンツであるインスタンスも流行している。Pawooについては複雑な事情があるものの、ロリ絵師の移住が原動力の一つであることは疑いようがない。

ようやくGabの話をすると、英語圏のメディアが「ナチスなしのツイッター代替、最大の極右サイトの安住の地に」という記事を出したらしく、Gargronがおかんむりになっている。このような記事が出てしまうと、新たにマストドンを始めようとする人が二の足を踏むようかもしれない。とはいえ、2017年4月のブームを過ぎてからは、マストドンは長い長い黄昏にあり、威勢がいいのはセックスワーカーとポルノくらいだろう。ここまで来たら、人目を気にせず我が道を行くほうがいいかもしれない。

分散SNSというアイディアは反検閲と親和性の高い技術で、逆に言うと、不愉快な隣人たちを締め出し続けるのは苦労が多い。Gargronはその点で、技術的な選択を誤ったのかもしれない。

それはそうと、Gargronは、かつてGNUsocial AXISに対してそうしたように、マストドンの多数のインスタンスがGabをブロックすることを望んでいる。さらに、新しい展開としては、クライアントアプリの作者に対しても、Gabをブロックすることを呼び掛けている。また、これに対して、日本のインスタンスや、日本のクライアントアプリ作者が、Gabのブロックに消極的であったり、あるいはGabのブロックに批判的な意見を多く表明していることは、興味深い現象である。

しかし、私の意見としては、日本語圏のマストドンユーザーが、あまりに言論の自由に夢を見すぎており、ヘイトスピーチの規制に乗り気でないことについては、率直に言って失望している。多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。私たちは、いつまでも言論の自由に夢を見ていることはできない。そのかわり、規制が必要な種類の言説があり、そのために私たちも行動しなくてはならないことを、認める必要がある。

2016年には、アメリカ合衆国ではドナルド・トランプが選挙に勝ち、連合王国ではBrexitが国民投票に勝った。英語圏の人々は、インターネットの極右がもはや不良の遊びではなく、ガチの政治的な勢力であることを学んだ。これに対して、日本語圏にいる私たちは、英語圏の人々と同じことを心配し、同じように行動する必要はない。

だからと言って、英語圏の人々が本気で心配していることを、我ら黄色人種が茶化したり、足を引っ張るようなことばかり言うべきではない。あるいは、日本語圏のインターネットは、より深刻な別の問題を抱えているが、それはおそらく、みなさんがそう聞いて想像するものとはまったく正反対のものであろうというのが、今の時点での私の見立てである。