非対称な倫理だけがアクチュアルで、可能な行動はおそらくデカダンスしかない

歴史的に言えば、私たちは常に、どうにもならない権力の非対称を発見してきた。マルクス主義者が資本家と労働者を、ポストコロニアリストが征服者と被征服者を、日本の格差社会論者が正規雇用者と非正規雇用者を発見したように。

もっと時間と場所を限定して、たとえば2019年の日本の首都圏に生きる私たちは、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、というように、いくらでも深刻な非対称を挙げることができる。

このような非対称を不正であるとして、これを暴力によって転覆したり、漸進的に格差を是正したりする行動は、もちろん可能である。しかし、そのような革命はいつ実現するかわからないし、永遠に実現しないかもしれない。革命を夢想するだけでなく、革命のために行動することですら、それだけでは革命の成就のために十分ではない。実際には、革命家でさえも旧体制のもとで当座の生活をやっていく必要がある。

では、このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?

もっとあり得そうなことは、このような非対称性を糊塗したり、見なかったことにしたり、何らかのトリックによって解消したことにすることである。

すなわち、優位者と劣位者を共通のルールのもとにおいて、自由に行動させれば、それは公正であるという信仰がある。もしそれが法であれば、フラットデザイン化された神であるとか、法フィリアであるというように、このブログで何度か厳しい批判を加えてきた。あるいは、それが貨幣経済であれば、だいたいリバタリアンの主張に近く、要は年収のデカいやつが正しいという倫理である。いずれにせよ、法は政権党の支持者と左派政党の支持者にとって平等ではないし、貨幣経済は金持ちと貧乏人にとって平等ではない。

人間の本質として、私たちはどうしても努力と競争を愛するのであり、シンプルなルールのもとで競争して優劣を決定したいという深い欲望がある。すなわち、社会をスポーツによって覆いたいという欲望である。

しかしながら、努力と競争がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは広く知られている。私たちはさまざまな理由から、苦痛に満ちた絶望的な戦いに対しても、努力と克己心で挑もうとしてしまう。そして、私たちの現実にあるさまざまな非対称を見て見ぬふりをしながら、努力というよりは消耗を続けることになる。

ここで私たちは、これまでの問題を3通り (実質的には2通り) に分割することにする。これまでの問題は、「このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?」であった。これを3通りに分割すると、

  1. 優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か。
  2. 優位者はいかなる倫理を持つべきか。
  3. 劣位者はいかなる倫理を持つべきか。

このうち、項番2「優位者はいかなる倫理を持つべきか。」は無視する。だから、当初の問題は、形式的には3通り、実質には2通りに分割される。

優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か? すでに触れたように、法または貨幣経済にそれを求めることは、絶望的である。リバタリアンたち、あるいは、もっと露骨な拝金主義者たちがいかに美辞麗句をならびたてようとも、賃労働がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは、あらゆる患者と医療者にとって疑いようもない日常である。

多少たりとも私が希望を持っているのは、優位者と劣位者のあいだに、相互性と連帯を回復することである。ひどく限定された分野における取り組みであるが、ソフトウェアの作者と利用者との相互性あるいは連帯は、オープンソースによって回復することが可能である。あるいは、劣位者のための戦術として、泣き落としであるとか、捨て身の脅し (相手によっては効果がないかもしれないが、失踪や自傷など) といった攪乱行動によって、優位者のメンタリティが多少たりとも融和的になる可能性がある。

では、劣位者はいかなる倫理を持つべきか? これまでさんざん (多少たりとも悲観的な気分になりながら) 述べてきたように、革命を待望したり、革命のために行動することすら、私たちにとってアクチュアルではない。あるいは、もっと悪いことだが、優位者たちの倫理観を内面化して、自由と競争を愛するべきでもない。法にも貨幣経済にも、あるいは、その他のあらゆる、シンプルで美しく見えるルールにも、心を奪われるべきではない。

私が現時点で言えることは、劣位者にとってはすべての倫理が無効であるということである。たとえば、発達障害者にとっては、健常者たちが作ったルールとマナーは、そもそも遵守することが技術的に不可能である。だから、そのようなルールとマナーを内面化して、できもしないことに苦しむべではない。また、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子というように、反抗がきわめて難しい極限状態においては、捨て身の攪乱戦法を含むすべての行動が妥当なのであり、それすら成功の見込みの薄い絶望的な試みにすぎない。

劣位者にとって倫理があるとすれば、それはデカダンスであるべきである。あらゆる倫理はすでに無効であるばかりでなく、本質的に無効であるべきである。優位者たちの倫理、あるいは、優位者と劣位者の非対称を詐術によって除去しようとする倫理を、内面化すべきではない。ここで、倫理を内面化すべきでない、ということは、不服従とも言い換えられる。行動のレベルでも、あるいは、可視的な行動があまりに危険である場合にはスピリチュアルなレベルであっても、私たちの採るべき道は不服従であり、倫理の無効であり、デカダンスである。

私たちが友とすべきものは飲酒、喫煙、そして向精神薬である。それは努力と競争ではあり得ない。法、公正、自由、ルール、平等といった美辞麗句も、決して私たちの助けにはならない。革命も、格差の是正も、遠い未来に予想されるべき希望としては役に立つが、私たちの生活にとっては遅すぎる。

だから、もしインターネットの存在に物を贈るなら、酒かローターが良い。

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非対称な倫理の可能性について

3.distsn.orgで文字を打ち込んでいたら標記のような着想があったので、とりあえずメモ。

せる師。

同害報復の原理好きだしその意思が備わっていることは社会の秩序の維持に重要だとは思うがそれをすることに実際メリットがあるかといえばないまではわかる(するけど)
倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要であることもわかる(それはそれとして行動は常に自分に徳があるようにする)

私。

せる師は「倫理はあらゆる人間に当てはまるからこそ思想として機能するのなら対称性は必要である」と言ってるけど、2019年の私たちにとっては非対称な倫理体系のほうがアクチュアルで、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、などをやっていく必要がある。

私。

私たちの置かれている状況に限って言えば、倫理があるとすればそれはどこまても本質的に非対称であるし、そのように構築せざるをえない。

私。

身近なところでいえばアルファツイッタラーと零細ツイッタラー、ソフトウェアの作者とユーザー、インスタンスの鯖缶と住民みたいな論点もやっていきがあった。

私。

寝て起きてからまだ非対称な倫理ということを考えていて、たとえば芸術の創出に寄与し得る者とそうでない者が存在することは認めざるを得ない、そこで芸術の創出者と消費者のあいだに相互性であるとか連帯は存在し得るかという問いがある。実際のところ、それは二次創作をめぐる学級会みたいな形で議論されているし、実践もされているわけです。

せる師。

例えば芸術は消費者と製作者両方によって成り立っているのだから両者とも尊重すべきとか対等であれということだろうか

私。

本質的に対等であり得ない関係のなかに、いかにして相互性と連帯を導入するか、ということが言いたかった。

私。

ソフトウェアの作者とユーザーの関係について、そのようなことを論じた文があるのですが、プログラミングをやってないとよくわからないかもしれません。
なぜイシューとプルリクエストに応答しなければならないか、あるいは、プロプライエタリかまってちゃんをチヤホヤするのをやめろ

芸術の創出者と消費者という問題には伏線があったかもしれない。京アニの火事について、才能あるクリエイターが死ぬことが、そうでない人が死ぬことよりも悲しいと思うことは倫理的に妥当か? というような問いがあった。

せる師。

人が死ぬのはどんなことで悪いと思う上で才能がある人々と生まれるはずだった作品が消えてしまったのが悲しくて、感覚としては妊婦さんを殺すなみたいなのに近いのかもしれない

私。リバタリアンが嫌い。

私はリバタリアンが本当に嫌いなので、いつかせる師とも敵になるかもしれぬ。

私。相互性と連帯。

俺らの発達だと人の心が分からないので社会の相互性と連帯に参画することが難しい、かといってリバタリアンの世界では職がなくて野垂れ死んでしまう、おそらく前者のほうがまだ生存の見込みがありそうというのが私の見立てです。

私。速が出てきた。

俺らの発達にもいろいろあって、自責傾向が強いとリバタリアンになって健常者と競争して勝とうとしてしまうし (いや勝てるわけないじゃん!!!)、自閉傾向が強いとシンプルなルールで健常者とのAPIを定義できると信じてしまう (健常者が俺らに対してルールを守るわけないじゃん!!!) というのがあり、多動かつ他責傾向がカンストしてる場合に限って、リバタリアニズムに反抗することが可能になる。

せる師。草の根保守ならGabとかfreespeechextremist.comあたりと仲良くなれそう。

草の根保守などをやったのでリバタリアンの倫理わかった

せる師。リバタリアン嬉しいのか。

リバタリアンの倫理好きなのでそう指摘されたのちょっと嬉しい。わたしは一人でも生き抜いていられる人になりたいし武器を研いで行くぞ!

英語圏の苦悩と日本語圏の冷淡: Gabをめぐる東西の深い無理解

Gabがマストドンのフォークに移行したことで、いろいろと騒動になっているようだが、まずは私たちは、過去から学ぶ必要がある。

みなさんはGNUsocial AXISを覚えているだろうか? 2017年4月のマストドンブームの時期に、Gargronが複数のGNU socialのインスタンスをブロックしたことが騒動になった。特に問題なのは、Gargron自身のインスタンスであるmastodon.socialのみならず、複数のインスタンスが「ブロックリスト」を共有し、それに追随したことである。ブロックされた側である、GNU socialの複数のインスタンスは、GNUsocial AXISを自称し、The GNUsocial Axis Resolutionsという檄文を発表した。アノニマスもそれに便乗して見解を表明している

Pleromaは文化的にはGNUsocial AXISの流れを汲んでおり、GNUsocial AXISの関係者がPleromaの開発者をしていることが多い。特に、Pleromaの創始者であるlainが代表例である。とはいえ、Pleromaの開発者にも多様性があり、例えばkaniiniは、ヘイトスピーチの規制と厳格なモデレーションを主張している。

Gargronとlainはいずれもドイツ在住であり、歴史修正主義それ自体が違法である環境に置かれている。だから、この二人の行く道を分けたのは、法的問題というよりは、人間としての信条によるところが大きいと思われる。

ところで、話は変わって、SwitterHumblrについても触れておこう。2017年4月のブームが過ぎたあとで参入して、大きく成長したインスタンスといえば、これらを挙げないわけにはいかない。同様のコンセプトのインスタンスは複数あり、例えばsinblr.comもにぎわっている。これらは、アメリカ合衆国がセックスワーカーのインターネットの利用を規制したことと、Tumblrがポルノを禁止したことへの反発が原動力になっている。ポルノがコンセプトのインスタンスといえば、マスタベ丼とやってることは変わらないのだが、ちゃんとポルノをアップロードするユーザーがたくさんいる (無断転載を含めて!) のがおもしろい。やはり刑法175条が悪い気がする。いずれにせよ、私はポルノを愛好しているが、お上品な人たちからはあまり快く思われないだろう。世界の嫌われ者はネトウヨだけではない。

ポルノといえば、PawooBaraag、あるいはpl.smuglo.liのように、児童ポルノ (安心してほしい。ここで扱われているのは、少なくとも日本では合法である) が主要なコンテンツであるインスタンスも流行している。Pawooについては複雑な事情があるものの、ロリ絵師の移住が原動力の一つであることは疑いようがない。

ようやくGabの話をすると、英語圏のメディアが「ナチスなしのツイッター代替、最大の極右サイトの安住の地に」という記事を出したらしく、Gargronがおかんむりになっている。このような記事が出てしまうと、新たにマストドンを始めようとする人が二の足を踏むようかもしれない。とはいえ、2017年4月のブームを過ぎてからは、マストドンは長い長い黄昏にあり、威勢がいいのはセックスワーカーとポルノくらいだろう。ここまで来たら、人目を気にせず我が道を行くほうがいいかもしれない。

分散SNSというアイディアは反検閲と親和性の高い技術で、逆に言うと、不愉快な隣人たちを締め出し続けるのは苦労が多い。Gargronはその点で、技術的な選択を誤ったのかもしれない。

それはそうと、Gargronは、かつてGNUsocial AXISに対してそうしたように、マストドンの多数のインスタンスがGabをブロックすることを望んでいる。さらに、新しい展開としては、クライアントアプリの作者に対しても、Gabをブロックすることを呼び掛けている。また、これに対して、日本のインスタンスや、日本のクライアントアプリ作者が、Gabのブロックに消極的であったり、あるいはGabのブロックに批判的な意見を多く表明していることは、興味深い現象である。

しかし、私の意見としては、日本語圏のマストドンユーザーが、あまりに言論の自由に夢を見すぎており、ヘイトスピーチの規制に乗り気でないことについては、率直に言って失望している。多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。私たちは、いつまでも言論の自由に夢を見ていることはできない。そのかわり、規制が必要な種類の言説があり、そのために私たちも行動しなくてはならないことを、認める必要がある。

2016年には、アメリカ合衆国ではドナルド・トランプが選挙に勝ち、連合王国ではBrexitが国民投票に勝った。英語圏の人々は、インターネットの極右がもはや不良の遊びではなく、ガチの政治的な勢力であることを学んだ。これに対して、日本語圏にいる私たちは、英語圏の人々と同じことを心配し、同じように行動する必要はない。

だからと言って、英語圏の人々が本気で心配していることを、我ら黄色人種が茶化したり、足を引っ張るようなことばかり言うべきではない。あるいは、日本語圏のインターネットは、より深刻な別の問題を抱えているが、それはおそらく、みなさんがそう聞いて想像するものとはまったく正反対のものであろうというのが、今の時点での私の見立てである。

GabとGAFA: Fediverseの不愉快な隣人たち

追記 この記事よりHow the biggest decentralized social network is dealing with its Nazi problemその日本語訳を読んだほうがいい。

Gabがマストドンのフォークに移行するという噂があり、Gargronアプリ開発者たちは浮足立っているようだ。

Gabはオルトライトの巣窟であり、聞くに堪えないヘイトスピーチにあふれている。もしGabがActivityPubの連合に参加するのならば、マストドンの多くのインスタンスがGabをドメインブロックするのは、自然な成り行きである。

話が複雑なのは、マストドンのクライアントアプリがGabをブロックすべきかという問題である。ここには、私たちFediverseの旧住民とGabという不愉快な新住民という二項対立のほかに、GAFAというやっかいな巨人たちの存在が影を落としている。GAFAのうちでもAppleとGoogleは、iOSとAndroidのアプリストアを掌握し、その (しばしば恣意的でもある) 審査を通して、アプリの作者たちを強権的に支配している。現に、Gabのスマートフォン用アプリは、ストアの審査で落とされており (けだし、これは妥当な判断であろう)、スマートフォンのユーザーも、ウェブUIの使用を余儀なくされている。

もし、Gabがマストドンのフォークに移行すれば、マストドンのために開発されたスマートフォン用アプリは、Gabにアクセスするためにも使うことができる。Gabの運営者は、そのことを期待しているようである。これに対して、Gargronは、マストドンのクライアントアプリの開発者にも、Gabをドメインブロックするよう呼び掛けている。

ここにはちょっとした落とし穴がある。スマートフォン用アプリの開発者のなかには、Gabをブロックすることの動機として、もしGabをブロックしなけれなければアプリストアからバンされるだろう、という憶測を述べる者がある。

残念ながら、これはきわめて服従主義的な意見であり、私たちはこの憶測と脅しを受け入れるべきではない。もし、アプリの作者たちが、Gabの非人道的な主張に抗議するためにこれをブロックするというのなら、それは立派な行いであろう。しかし、アプリストアの判断を忖度したうえで、アプリストアにブロックされたくないから自分はGabをブロックするというのでは、そのアプリの開発者は、アプリストアに隷属する醜い腰巾着にすぎない。

GAFAによる寡占と専制は、オルトライトの興隆と同じぐらい、私たちのインターネットにとっての深刻な脅威である。オルトライトの興隆をおそれるあまり、GAFAのような巨人たちに、無批判に庇護を求めたり、自ら隷属を希望するかのような行動を取るべきではない。

マストドン公式のインスタンス一覧が仕様変更。面倒な規則を課すも、たぶん誰も守らない

joinmastodon.org はマストドンの公式ウェブサイトである。そこにはインスタンス一覧が付属している。このインスタンス一覧の仕様が、2019年5月ごろから変更になった。

これまでのjoinmastodon.orgは、instances.social のデータからインスタンス一覧を生成していた。instances.socialでは、インスタンスの登録は自動化されていた。joinmastodon.orgの新しい仕様では、インスタンスの登録は人間がメールを読んで行うので、技術的には後退している。

さらに重要な変更点は、Mastodon Server Covenant という文書が追加され、インスタンス一覧への登録に厳しい制約が課されるようになったことである。その制約の内容は以下。

  1. 人種差別、性差別、同性愛差別、性転換差別に対する活発な処罰。
  2. 定期的なデータのバックアップ。
  3. 緊急時にサーバーをメンテナンスできる人が複数いること。
  4. インスタンスを閉鎖する3ヶ月前にはユーザーに告知すること。

とはいえ、この規則を真面目に読むのは時間の無駄である。実際にjoinmastodon.orgのインスタンス一覧を見てみると、中小のインスタンスも数多く掲載されており、このような厳格な体制を構築しているとはとうてい思えないインスタンスが多数を占めている。日本の鯖缶たちは法フィリアが多く、これらの厳格な規則をどのように遵守しようか思い悩んでしまうかもしれないが、海外のハッカーたちはそんなことはお構いなしというわけだ。そして、これらの規則を遵守する意志があるかどうかは自己申告であり、特に審査は行われていないし、証明を求められることもない。そもそも、joinmastodon.orgの運営者 (それはGargronその人である!) には、そのような能力も時間もない。結局のところ、このような規則が守られるかどうかは誰も気にしておらず、くよくよ思い悩むだけ時間の無駄である。

そもそも、マストドンのインスタンスの一覧なんて誰も必要としていないのかもしれない。日本語圏ではいまだにk52とかいう腐臭を発するゴミが幅を利かせている。みんな登録ユーザー数の偽装でもすればいいと思う。

この規則を遵守することは可能か?

それはそれとして、Mastodon Server Covenantという偉そうな名前の規則をちゃんと守ることが可能か、ざっとでいいので検討してみよう。

人種差別、性差別、同性愛差別、性転換差別に対する活発な処罰

これは言われなくてもちゃんとやってほしい。ヘイトスピーチを規制することは、マストドンのインスタンスに限らず、すべてのウェブサイトにとっての義務である。

そして、ヘイトスピーチの排除は、小規模なインスタンスほど容易である。管理者の目が届きやすいし、住民の相互監視もある。これに対して、中小企業が実力以上に巨大なインスタンスを保有している場合には、対応がおざなりになりそうだ。

例えば Patriot_silver@mstdn.jp というユーザーは、過激なレイシストであるが、垢バンどころかサイレントにすらなっておらず、ローカルタイムラインに公然とヘイトスピーチを垂れ流している。mstdn.jpがこの条項を遵守するのは不可能だろう。

定期的なデータのバックアップ

これはすでに実現しているインスタンスも多いだろう。ただ、資金難のインスタンスは、背伸びをしてバックアップにまで手を出さないほうがいいと思う。

緊急時にサーバーをメンテナンスできる人が複数いること

これは個人運営のインスタンスでは実現が困難であろう。この条項は、信頼できる人物に、サーバーの管理者パスワードを渡すということを意味する。そのような、全面的な信頼を預けられる人物を、見つけることができるだろうか?

これに関連しそうなトラブルの事例として、モデレーター権限の例が挙げられる。knzk.meでは、モデレーター権限の付与と剥奪をめぐって、人間関係に亀裂が生じたことがある。余談だが、マストドン日本語ウィキのある執筆者が、knzk.meの記事をめぐって関係者とトラブルになったことをきっかけに、この件が明るみに出たことがあった。このような経緯から、マストドン日本語ウィキでは、この件について記述しないことが申し送りとなっている。

話を戻すと、サーバーの管理者パスワードを渡すことは、モデレーターとは比較にならない強大な権限である。私たちは、このような強大な権限を共有すべき、信頼できる人物を見つけることができるだろうか?

ただし、形式的には、親兄弟にでもパスワードを渡しておけば、この条項をクリアすることができる。サーバーをメンテナンスできる人が複数いると言っても、実際にサーバーの修復に成功することまでは要求されていないからだ。

インスタンスを閉鎖する3ヶ月前にはユーザーに告知すること

この条項は手の込んだいたずらに思える。すでに閉鎖を決めているインスタンスが、インスタンス一覧に掲載されることを希望するとは思えないからだ。

とはいえ、過去に告知なしでインスタンスを閉鎖したことがある法人が、現存する他のインスタンスについても同様の疑いをかけられることはあるだろう。botdon.netが事前の告知なしに (事後の告知のみで) インスタンスを閉鎖したことは記憶に新しい。合同会社きぼうソフトが、mstdn.jpやmastodon.cloudといった主力のインスタンス (他人からわざわざ譲り受けたインスタンスでもある) をスナネコすることは考えにくいが、now.kibousoft.co.jpかplero.maあたりは、予告なしに閉鎖されてもおかしくない状況である。

別の観点から言えば、事前の告知は必要であるとしても、3ヶ月という期間は長すぎるという論点もある。friends.nicoが閉鎖を告知してから実際に閉鎖されるまでの期間は、ちょうど1ヶ月であった。この告知期間が短すぎるという意見は耳にしたことがない。

分散SNSは個々のインスタンスに過剰品質を求めるべきでない

Gargronが示した4条項のうち、第1条を除く残りの3条項は、いずれもサービスの継続性に関するものである。データをバックアップすること、緊急時にメンテナンスが可能であること、サービス終了を事前に告知すること。これらは、プロプライエタリなウェブプラットフォームであれば、当然に求められる品質である。しかし、これは分散SNSのインスタンスにとっても必要なのだろうか?

分散SNSのユーザーたちには、あるインスタンスがダウンしたときに、別のインスタンスに「避難」するという行動が普通に見られる。歴史的な話をすれば、分散SNSという発想の源流のひとつは、ツイッターが頻繁にダウンしていた時期に、あるインスタンスがダウンしてもSNSを続けられるようにしたいというものだった [横田真俊, 2017]。分散SNSにおいては、個々のインスタンスのサービス継続性が低品質であっても、ネットワーク全体として生き延びることができる。Gargronは、厳格な規則を振りかざすよりも、このような柔軟な発想を大切にすべきだろう。

実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない

絶対の真理を会得したいとか、無知蒙昧な民衆を教化したいといった強烈な情熱があるのでもない限り、私たちにとって問題なのは、何が真実で何が虚偽であるかではない。むしろ、自分の観測範囲にいる隣人たちが、どのような信念を持っており、それがどのように分布しているかが、より差し迫った問題である。

たとえば、ヘゲモニー的なディスクールが力を持っていて、マイノリティはささやかな反抗を試みるか、もしくは自らの信念を偽って生きているような環境は、私たちにとって暮らしやすい場所だろうか? あるいは、さまざまな対立が、2個の信念の体系に集約されており、どちらか一方を選んで味方することができるような環境はどうだろうか? あるいは、さまざまな争点に対して多数の信念が存在して、ある時は争い、またある時は和解しているような環境はどうだろうか?

議会制民主主義においては、ヘゲモニー政党制、二大政党制、小党分立制の、それぞれの利点と欠点が経験的に知られている。余談だが、個人的には、ヨーロッパ風の小党分立制が優れているように思える。

ところで、「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、あまりにもシンプルな原理に、過大な期待を負わせているように思える。すなわち、私がかつて「フラットデザイン化された神」と軽蔑的に命名した、インターネットの論客にありがちな構造に陥っているのではないか。

多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。なぜならば、優勢なディスクールに属している者は、行動も発言もますます大胆になっていくのに対して、そうでない者たちは、少しずつではあるが確実に、発言のたびに負担が大きくなり、自らの信念を隠したり、周囲に迎合したりすることの必要性が増大していくからである。

私たちにとって、すべての信念が同様に尊重されるユートピアを夢見ることはもはや不可能である。むしろ、私たちは、ヘゲモニー的なディスクールに圧迫されつつある劣勢な信念に、積極的に加担する必要がある。すなわち、天上界において自由や平等を夢想することをやめて、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

そして、私たちは、理性的で、美しく、高潔に見える人々の主張に反対し、暴力的で、偏狭で、醜悪に見える人々の主張を採らなければならない。なぜなら、科学、統計、調査報道といったリソースは、ヘゲモニーを獲得した人々によって、より大規模かつ効率的に動員され得るからである。そうでない人々の武器は、オカルト、アジテーション、ゴシップである。それゆえに、冷静であること、礼儀正しいこと、理性的であることは、ヘゲモニーを内面化した者たちのしるしであり、私たちはそれに幻惑されることを避けなければならない。

一例として、古典的な疑似科学である「水からの伝言」問題を考えてみよう。これは、特定の教師らによる団体が推奨し、複数の小学校で道徳の授業に使われたことから、問題が拡大した。ここで、ちょっとした思考実験がある。科学の信奉者たちは、もし科学的な手法によって厳格にコントロールされた実験系において、「水からの伝言」が主張する通りの実験結果が得られたら、この事実を道徳の授業に利用することを歓迎するだろうか?

これまでの筆致からお分かりいただけると思うが、「水からの伝言」が科学的な事実であったとしても、それを道徳の授業に使うべきでないという結論は何ら後退させるべきではない、というのが私の主張である。子供たちに「きれいな言葉」と「きたない言葉」の区別を強いることは、生活のためにある程度は必要な知識であるとはいえ、民衆から反抗のための語彙を奪うことにほかならないからである。

ここでは一例しか挙げていないが、邪悪な疑似科学とされているもののほとんどは、疑似科学であるがゆえに邪悪なのではなく、まったく別の理由、抽象的に言えば人々の生活とのかかわりにおいて邪悪であるがゆえに、滅ぼされる必要があるものばかりである。疑似科学との戦いに、科学者たちの知識はほとんど必要にならない。そればかりか、疑似科学の信奉者たちの主張が、もし科学的に真実であるったとしても、私たちはなお、その主張に反対し続ける必要がある。

念のために逆方向の例も挙げておくと、子宮頸癌ワクチンに反対する運動や、2011年の原発事故によって子供たちの甲状腺癌が増加したと主張する運動は、科学的には誤りであるかもしれないが、民衆の深い心理から出たものである。もし敵が私たちにマシンガンの銃口を向けるならば、私たちはパチンコか投石のような手段で、即席の反抗を試みることができる。だとすれば、敵対者たちが科学を武器として征服を開始したとき、私たちにできることは、即席の魔術によってこれに対抗することである。実際に、オカルトは、科学に対して抵抗を試みる者のための、即席の魔術にほかならない。それは、科学を信奉する者からは疑似科学と呼ばれるかもしれないが、実際には、科学の偽物を作り上げることには、それ相応の意味があると考えるべきだろう。

残念ながら、前述の「特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない」という主張を、私は実践できているとは言いがたい。ある意味では罪滅ぼしとして、Consumer Generated Mediaの分野で、レコメンデーション・フェアネスという概念の普及に尽力してきた。レコメンデーション・フェアネスとは、特定のユーザーにプレゼンスが集中すること (Internet of Celebrities) に反対し、無名の人々を積極的に推挙すべきだという主張である。あるレコメンデーション・エンジンが、すでに多くのフォロワーを獲得しているユーザーをさらにレコメンドするならば、そのレコメンデーション・エンジンは「アンフェア」である。そして、レコメンデーション・エンジンが「ニュートラル」であるとは、あらゆるユーザーを平等に扱うこと、例えば、単にランダムなユーザーを表示するとか、あるいは、あるユーザーに似たユーザーを推挙するなどである。最後に、レコメンデーション・エンジンが「フェア」であるとは、無名のユーザーを積極的に推挙すること、例えば、新しく登録したばかりのユーザーを表示するとか、フォロワー数が少ないユーザーを優先して表示するなどである。

「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、レコメンデーション・フェアネスとのアナロジーで言えば、「ニュートラル」の段階にとどまる。そうではなく、「フェア」であることを目指そうとするならば、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

すべての信念が平等に正しいという境地を「波」にたとえるのは、荘子のいう「気」のイメージを思い起こさせる。書物としての「荘子」は内篇、外篇、雑篇に分けられている。雑篇は荘子の思想であるかどうか怪しいものが押し込められているので、ここでは内篇と外篇について考える。内篇では、詩的で高邁な無為の思想が説かれるのに対して、外篇では、儒家をはじめとする対立する党派への、激しい論難が行われている。私は、このいずれも、真実の荘子を写している文章であると思う。

私がこれまで書いてきた文章にも、詩的で自己完結的なものと、攻撃的で党派的なものがあるようである。しかも、ひとつのトピックについて、前者と後者がこの順に連続して書かれた例が複数ある。このブログでは、LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではないLGBTPZNは攻撃的であるべきだ、ただし遊戯的である場合に限って事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいてはそれはそれとして俺はお前を殺すドヤ街と観覧車電飾に彩られたアベノミクス、小説では、はだしのフクシマカミカゼ神社ハイスクールがそうである。後者を前者に対する蛇足と解することも可能だが、私としては、どちらも意味のある文章であったと考えている。

小説では、文学的な構成の美しさを優先すると、どうしても、詩的で自己完結的なものになりがちである。例えばブログであればその制約は緩和されるけれども、結局のところ、非暴力の言論を闘争の手段とする限りは、その射程にはおのずと限界がある。

電飾に彩られたアベノミクス

ドヤ街と観覧車 は、インターネットのひとびとに、どのように読まれただろうか? 安倍政権を支持する立場からは、盲目的に安倍批判に邁進する暴力的な両親と、それに苦しめられる繊細な女子高生との対比を、マジョリベーションとして消費することもできただろう。マジョリベーションとは、majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。

電飾さんからのインターネットでの応答は、「多様な人々がそれぞれの傷つきに基づいてそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」というものである。では、私たちは、私たちの傷つきをどのように表明し、また、それをどのように受け止めてきただろうか?

私は私なりにやってきたことがある。分散SNS、あるいは私のインスタンスである 3.distsn.org では、傷つきを安全に表明できる場所を提供しようとしてきた。また、インターネットが少数の有名なユーザーのためのものにならないように、あるいは、私たちの傷つきの表明が誰にも届くことなく消えてしまうことがないように、レコメンデーション・フェアネスというイデオロギーを掲げて活動してきた。

現実には、どんなに手を伸ばしても、届かないもののほうが多い。私は党派的な理由から、電飾さんのご両親の活動を否定することができない。

私の見立てでは、あらゆる「正しさ」が金持ちの悪趣味自慢にすぎないという世界が、もうすぐそこまで来ている。左派政党は、もはや「正しさ」を捨てて、生身の「傷つき」だけを掲げて戦うべきかもしれない。

それでも、私たちは、傷つきの表明だけで、私たちの共同体を構成することはできない。あのとき、私たちの前には、観覧車と運河があった。電飾に彩られた観覧車はアベノミクスのようであり、暗い水底は左派政党の趨勢を暗示しているようであった。ときおり、このような即席の魔術に行き当たることがある。二人の党派的な相克にもかかわらず、電飾さんが観覧車に乗りたいと言えば、私は喜んでついていくし、私が水底に沈むときは、電飾さんの手を引いて行きたいと思う。