非対称な倫理だけがアクチュアルで、可能な行動はおそらくデカダンスしかない

歴史的に言えば、私たちは常に、どうにもならない権力の非対称を発見してきた。マルクス主義者が資本家と労働者を、ポストコロニアリストが征服者と被征服者を、日本の格差社会論者が正規雇用者と非正規雇用者を発見したように。

もっと時間と場所を限定して、たとえば2019年の日本の首都圏に生きる私たちは、金持ちと貧乏人、与党支持者と野党支持者、健常者と障害者、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子、というように、いくらでも深刻な非対称を挙げることができる。

このような非対称を不正であるとして、これを暴力によって転覆したり、漸進的に格差を是正したりする行動は、もちろん可能である。しかし、そのような革命はいつ実現するかわからないし、永遠に実現しないかもしれない。革命を夢想するだけでなく、革命のために行動することですら、それだけでは革命の成就のために十分ではない。実際には、革命家でさえも旧体制のもとで当座の生活をやっていく必要がある。

では、このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?

もっとあり得そうなことは、このような非対称性を糊塗したり、見なかったことにしたり、何らかのトリックによって解消したことにすることである。

すなわち、優位者と劣位者を共通のルールのもとにおいて、自由に行動させれば、それは公正であるという信仰がある。もしそれが法であれば、フラットデザイン化された神であるとか、法フィリアであるというように、このブログで何度か厳しい批判を加えてきた。あるいは、それが貨幣経済であれば、だいたいリバタリアンの主張に近く、要は年収のデカいやつが正しいという倫理である。いずれにせよ、法は政権党の支持者と左派政党の支持者にとって平等ではないし、貨幣経済は金持ちと貧乏人にとって平等ではない。

人間の本質として、私たちはどうしても努力と競争を愛するのであり、シンプルなルールのもとで競争して優劣を決定したいという深い欲望がある。すなわち、社会をスポーツによって覆いたいという欲望である。

しかしながら、努力と競争がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは広く知られている。私たちはさまざまな理由から、苦痛に満ちた絶望的な戦いに対しても、努力と克己心で挑もうとしてしまう。そして、私たちの現実にあるさまざまな非対称を見て見ぬふりをしながら、努力というよりは消耗を続けることになる。

ここで私たちは、これまでの問題を3通り (実質的には2通り) に分割することにする。これまでの問題は、「このような非対称が、すぐに解決する見込みがないならば、そのような状況下において、私たちにはどのような倫理が可能であろうか?」であった。これを3通りに分割すると、

  1. 優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か。
  2. 優位者はいかなる倫理を持つべきか。
  3. 劣位者はいかなる倫理を持つべきか。

このうち、項番2「優位者はいかなる倫理を持つべきか。」は無視する。だから、当初の問題は、形式的には3通り、実質には2通りに分割される。

優位者と劣位者に共通する倫理を樹立することは可能か? すでに触れたように、法または貨幣経済にそれを求めることは、絶望的である。リバタリアンたち、あるいは、もっと露骨な拝金主義者たちがいかに美辞麗句をならびたてようとも、賃労働がメンタルヘルスにとって最悪の害毒であることは、あらゆる患者と医療者にとって疑いようもない日常である。

多少たりとも私が希望を持っているのは、優位者と劣位者のあいだに、相互性と連帯を回復することである。ひどく限定された分野における取り組みであるが、ソフトウェアの作者と利用者との相互性あるいは連帯は、オープンソースによって回復することが可能である。あるいは、劣位者のための戦術として、泣き落としであるとか、捨て身の脅し (相手によっては効果がないかもしれないが、失踪や自傷など) といった攪乱行動によって、優位者のメンタリティが多少たりとも融和的になる可能性がある。

では、劣位者はいかなる倫理を持つべきか? これまでさんざん (多少たりとも悲観的な気分になりながら) 述べてきたように、革命を待望したり、革命のために行動することすら、私たちにとってアクチュアルではない。あるいは、もっと悪いことだが、優位者たちの倫理観を内面化して、自由と競争を愛するべきでもない。法にも貨幣経済にも、あるいは、その他のあらゆる、シンプルで美しく見えるルールにも、心を奪われるべきではない。

私が現時点で言えることは、劣位者にとってはすべての倫理が無効であるということである。たとえば、発達障害者にとっては、健常者たちが作ったルールとマナーは、そもそも遵守することが技術的に不可能である。だから、そのようなルールとマナーを内面化して、できもしないことに苦しむべではない。また、雇用者と被雇用者、不動産所有者と居住者、親と子というように、反抗がきわめて難しい極限状態においては、捨て身の攪乱戦法を含むすべての行動が妥当なのであり、それすら成功の見込みの薄い絶望的な試みにすぎない。

劣位者にとって倫理があるとすれば、それはデカダンスであるべきである。あらゆる倫理はすでに無効であるばかりでなく、本質的に無効であるべきである。優位者たちの倫理、あるいは、優位者と劣位者の非対称を詐術によって除去しようとする倫理を、内面化すべきではない。ここで、倫理を内面化すべきでない、ということは、不服従とも言い換えられる。行動のレベルでも、あるいは、可視的な行動があまりに危険である場合にはスピリチュアルなレベルであっても、私たちの採るべき道は不服従であり、倫理の無効であり、デカダンスである。

私たちが友とすべきものは飲酒、喫煙、そして向精神薬である。それは努力と競争ではあり得ない。法、公正、自由、ルール、平等といった美辞麗句も、決して私たちの助けにはならない。革命も、格差の是正も、遠い未来に予感されるべき希望としては役に立つが、私たちの生活にとっては遅すぎる。

だから、もしインターネットの存在に物を贈るなら、酒かローターが良い。

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投稿者: Hakaba Hitoyo

墓場一夜

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