実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない

絶対の真理を会得したいとか、無知蒙昧な民衆を教化したいといった強烈な情熱があるのでもない限り、私たちにとって問題なのは、何が真実で何が虚偽であるかではない。むしろ、自分の観測範囲にいる隣人たちが、どのような信念を持っており、それがどのように分布しているかが、より差し迫った問題である。

たとえば、ヘゲモニー的なディスクールが力を持っていて、マイノリティはささやかな反抗を試みるか、もしくは自らの信念を偽って生きているような環境は、私たちにとって暮らしやすい場所だろうか? あるいは、さまざまな対立が、2個の信念の体系に集約されており、どちらか一方を選んで味方することができるような環境はどうだろうか? あるいは、さまざまな争点に対して多数の信念が存在して、ある時は争い、またある時は和解しているような環境はどうだろうか?

議会制民主主義においては、ヘゲモニー政党制、二大政党制、小党分立制の、それぞれの利点と欠点が経験的に知られている。余談だが、個人的には、ヨーロッパ風の小党分立制が優れているように思える。

ところで、「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、あまりにもシンプルな原理に、過大な期待を負わせているように思える。すなわち、私がかつて「フラットデザイン化された神」と軽蔑的に命名した、インターネットの論客にありがちな構造に陥っているのではないか。

多様な信念が共存する環境が可能であるとすれば、それは、すべての表現が自由であるとか、すべての信念が同様に尊重されるといった、古典的な自由主義では不可能である。なぜならば、優勢なディスクールに属している者は、行動も発言もますます大胆になっていくのに対して、そうでない者たちは、少しずつではあるが確実に、発言のたびに負担が大きくなり、自らの信念を隠したり、周囲に迎合したりすることの必要性が増大していくからである。

私たちにとって、すべての信念が同様に尊重されるユートピアを夢見ることはもはや不可能である。むしろ、私たちは、ヘゲモニー的なディスクールに圧迫されつつある劣勢な信念に、積極的に加担する必要がある。すなわち、天上界において自由や平等を夢想することをやめて、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

そして、私たちは、理性的で、美しく、高潔に見える人々の主張に反対し、暴力的で、偏狭で、醜悪に見える人々の主張を採らなければならない。なぜなら、科学、統計、調査報道といったリソースは、ヘゲモニーを獲得した人々によって、より大規模かつ効率的に動員され得るからである。そうでない人々の武器は、オカルト、アジテーション、ゴシップである。それゆえに、冷静であること、礼儀正しいこと、理性的であることは、ヘゲモニーを内面化した者たちのしるしであり、私たちはそれに幻惑されることを避けなければならない。

一例として、古典的な疑似科学である「水からの伝言」問題を考えてみよう。これは、特定の教師らによる団体が推奨し、複数の小学校で道徳の授業に使われたことから、問題が拡大した。ここで、ちょっとした思考実験がある。科学の信奉者たちは、もし科学的な手法によって厳格にコントロールされた実験系において、「水からの伝言」が主張する通りの実験結果が得られたら、この事実を道徳の授業に利用することを歓迎するだろうか?

これまでの筆致からお分かりいただけると思うが、「水からの伝言」が科学的な事実であったとしても、それを道徳の授業に使うべきでないという結論は何ら後退させるべきではない、というのが私の主張である。子供たちに「きれいな言葉」と「きたない言葉」の区別を強いることは、生活のためにある程度は必要な知識であるとはいえ、民衆から反抗のための語彙を奪うことにほかならないからである。

ここでは一例しか挙げていないが、邪悪な疑似科学とされているもののほとんどは、疑似科学であるがゆえに邪悪なのではなく、まったく別の理由、抽象的に言えば人々の生活とのかかわりにおいて邪悪であるがゆえに、滅ぼされる必要があるものばかりである。疑似科学との戦いに、科学者たちの知識はほとんど必要にならない。そればかりか、疑似科学の信奉者たちの主張が、もし科学的に真実であるったとしても、私たちはなお、その主張に反対し続ける必要がある。

念のために逆方向の例も挙げておくと、子宮頸癌ワクチンに反対する運動や、2011年の原発事故によって子供たちの甲状腺癌が増加したと主張する運動は、科学的には誤りであるかもしれないが、民衆の深い心理から出たものである。もし敵が私たちにマシンガンの銃口を向けるならば、私たちはパチンコか投石のような手段で、即席の反抗を試みることができる。だとすれば、敵対者たちが科学を武器として征服を開始したとき、私たちにできることは、即席の魔術によってこれに対抗することである。実際に、オカルトは、科学に対して抵抗を試みる者のための、即席の魔術にほかならない。それは、科学を信奉する者からは疑似科学と呼ばれるかもしれないが、実際には、科学の偽物を作り上げることには、それ相応の意味があると考えるべきだろう。

残念ながら、前述の「特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない」という主張を、私は実践できているとは言いがたい。ある意味では罪滅ぼしとして、Consumer Generated Mediaの分野で、レコメンデーション・フェアネスという概念の普及に尽力してきた。レコメンデーション・フェアネスとは、特定のユーザーにプレゼンスが集中すること (Internet of Celebrities) に反対し、無名の人々を積極的に推挙すべきだという主張である。あるレコメンデーション・エンジンが、すでに多くのフォロワーを獲得しているユーザーをさらにレコメンドするならば、そのレコメンデーション・エンジンは「アンフェア」である。そして、レコメンデーション・エンジンが「ニュートラル」であるとは、あらゆるユーザーを平等に扱うこと、例えば、単にランダムなユーザーを表示するとか、あるいは、あるユーザーに似たユーザーを推挙するなどである。最後に、レコメンデーション・エンジンが「フェア」であるとは、無名のユーザーを積極的に推挙すること、例えば、新しく登録したばかりのユーザーを表示するとか、フォロワー数が少ないユーザーを優先して表示するなどである。

「すべての人がそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」あるいは「すべての信念は同様に正しい」という主張は、レコメンデーション・フェアネスとのアナロジーで言えば、「ニュートラル」の段階にとどまる。そうではなく、「フェア」であることを目指そうとするならば、地上の戦いにおいて、特定の党派に所属することを躊躇せず、実弾をもってヘゲモニーを撃たなければならない。

すべての信念が平等に正しいという境地を「波」にたとえるのは、荘子のいう「気」のイメージを思い起こさせる。書物としての「荘子」は内篇、外篇、雑篇に分けられている。雑篇は荘子の思想であるかどうか怪しいものが押し込められているので、ここでは内篇と外篇について考える。内篇では、詩的で高邁な無為の思想が説かれるのに対して、外篇では、儒家をはじめとする対立する党派への、激しい論難が行われている。私は、このいずれも、真実の荘子を写している文章であると思う。

私がこれまで書いてきた文章にも、詩的で自己完結的なものと、攻撃的で党派的なものがあるようである。しかも、ひとつのトピックについて、前者と後者がこの順に連続して書かれた例が複数ある。このブログでは、LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではないLGBTPZNは攻撃的であるべきだ、ただし遊戯的である場合に限って事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいてはそれはそれとして俺はお前を殺すドヤ街と観覧車電飾に彩られたアベノミクス、小説では、はだしのフクシマカミカゼ神社ハイスクールがそうである。後者を前者に対する蛇足と解することも可能だが、私としては、どちらも意味のある文章であったと考えている。

小説では、文学的な構成の美しさを優先すると、どうしても、詩的で自己完結的なものになりがちである。例えばブログであればその制約は緩和されるけれども、結局のところ、非暴力の言論を闘争の手段とする限りは、その射程にはおのずと限界がある。

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電飾に彩られたアベノミクス

ドヤ街と観覧車 は、インターネットのひとびとに、どのように読まれただろうか? 安倍政権を支持する立場からは、盲目的に安倍批判に邁進する暴力的な両親と、それに苦しめられる繊細な女子高生との対比を、マジョリベーションとして消費することもできただろう。マジョリベーションとは、majority と masturbation の造語であり、「私たちはあいつらみたいなキチガイじゃなくてよかったね」という、エンターテイメントとしての相互確認のことである。

電飾さんからのインターネットでの応答は、「多様な人々がそれぞれの傷つきに基づいてそれぞれの正しさを自由に表明できる社会が望ましい」というものである。では、私たちは、私たちの傷つきをどのように表明し、また、それをどのように受け止めてきただろうか?

私は私なりにやってきたことがある。分散SNS、あるいは私のインスタンスである 3.distsn.org では、傷つきを安全に表明できる場所を提供しようとしてきた。また、インターネットが少数の有名なユーザーのためのものにならないように、あるいは、私たちの傷つきの表明が誰にも届くことなく消えてしまうことがないように、レコメンデーション・フェアネスというイデオロギーを掲げて活動してきた。

現実には、どんなに手を伸ばしても、届かないもののほうが多い。私は党派的な理由から、電飾さんのご両親の活動を否定することができない。

私の見立てでは、あらゆる「正しさ」が金持ちの悪趣味自慢にすぎないという世界が、もうすぐそこまで来ている。左派政党は、もはや「正しさ」を捨てて、生身の「傷つき」だけを掲げて戦うべきかもしれない。

それでも、私たちは、傷つきの表明だけで、私たちの共同体を構成することはできない。あのとき、私たちの前には、観覧車と運河があった。電飾に彩られた観覧車はアベノミクスのようであり、暗い水底は左派政党の趨勢を暗示しているようであった。ときおり、このような即席の魔術に行き当たることがある。二人の党派的な相克にもかかわらず、電飾さんが観覧車に乗りたいと言えば、私は喜んでついていくし、私が水底に沈むときは、電飾さんの手を引いて行きたいと思う。

Picrewの著作権トロールとSLAPPは運営者も同罪だ

Picrewの著作権トロールとSLAPPは、「強い女メーカー」だけでなく、Picrewの運営者も同罪である。Picrewの使用を全面的に拒否すべきだ。

Picrewの「強い女メーカー」というデータセットの作者が著作権トロールとSLAPPを行っていることについて、「強い女メーカー」の作者を非難する意見はしばしば聞かれるものの、Picrewの運営者の責任を問う意見はほとんど見られない。

しかしながら、今回の騒動に関しては、Picrewの運営者も完全に同罪である。まず、Picrewの運営者は、著作権トロールとSLAPPに対して、まったく対抗手段を取ろうとしていない。それどころか、商業利用の定義に「アフィリエイトを設置している、サイト、アプリ等でのご利用」を明記することで、「強い女メーカー」の側の主張を積極的に支持している。

私たちは、特定のデータセットのみならず、Picrewそのものに対して、一切の使用を拒否しなければならない。

余談

3.distsn.orgではPicrewの利用を禁止している。もちろん、「強い女メーカー」だけでなく、Picrewのすべてのデータセットの使用が禁止される。

ドヤ街と観覧車

京浜東北線の関内駅で待ち合わせて、私と電飾さん、それにあと2人のインターネットの友人たちと会うことになった。私と電飾さんは初対面だった。電飾さんは寿町のあたりに住んでいて、炊き出しに参加することもあるらしい。私たちは横浜公園を抜けて、海沿いを進んだ。

海沿いの小さな広場では、東日本大震災に関連して、何らかの団体が、小規模な演説会を行っていた。演説の内容は、断片的にしか聞いていないが、それほど党派的な主張ではなかったように思う。ここで、電飾さんの様子がおかしくなりはじめた。体を縮めて、怯えているような表情を見せた。

私は逐語的に発言を記憶することはできなかったが、電飾さんは、「自分たちが正しいという話し方をする人たちが怖い」というようなことを言ったように思う。続いて「私の母もこのような話し方をする」「私たちの家族は安倍政権に壊された」「父は私を殴る」と言った、かもしれない。

それからしばらく海沿いを歩いて、観覧車が見えてきた。電飾さんは、観覧車に乗りたいと言った。電飾さんは純粋に観覧車が好きなだけかもしれない。けれども、私は勝手に、政治や家庭といったどうにもならない苦しみを乗り越えようとする、祈りのような心の働きを、観覧車を見てはしゃぐ電飾さんに見て取った。

別の参加者と待ち合わせるための時間的な制約というような、とても退屈で取るに足らない問題のために、私たちは観覧車に乗ることができなかった。私たちのいた場所と、観覧車とは、運河で隔てられていて、まっすぐに観覧車のもとに向かうことができなかった。私は運河の柵に足をかけて、ここを泳いで渡る、もしくは、この場で4人で海に沈んで死のうと言った。

私たちは、海に飛び込むことはやめて、運河の柵を背もたれにして、地べたに座り込んで話した。私は電飾さんに、政治的な団体が演説しているのを聞いて動揺していたのが印象的だった、と話した。そして、「私たちが政治的なことで争ったり、それによって苦しんだりしないように、単独の指導者か党のもとに、人々は団結すべきだろうか?」と聞いた。

私は、この質問をしたことを後悔している。この質問は、電飾さんをひどく苦しめたかもしれない。しかも、それは、私の興味と関心から、私がその答えを知りたかったという、利己的な動機から出ている。

もし電飾さんが、その通りだ、国が正しい答えを決めて国民を従わせてほしい、と答えたら、どうだろうか? 電飾さんの苦しみは、本当に深刻で、切迫した脅威である。電飾さんには、このような回答を選択するだけの正当な資格がある。ただ、これは私の望む答えではないし、これが私の望む答えではないということを、電飾さんは分かっていたはずだ。

電飾さんは、自由な社会においては、さまざまな考えを持つ人たちが自分の意見を表明するべきだ、と答えた。私は泣いてしまった。まず、私の質問が、あまりにも一方的で、電飾さんの深刻な苦痛をわざわざ掘り起こすものであるばかりか、私の望んだ通りの答えを、暗に押し付けてしまったようにも思われたからである。しかし、それとは別に、電飾さんが、自分自身の苦しみや、家庭の問題にもかかわらず、勇敢に、自らの信じる道を進もうとしているようにも感じられた。

切迫した苦痛のなかにある者に、なおも勇敢に運命に立ち向かうことを求めるのは、とても残酷なことだ。ひるがえって、私はせめて、会話の中で唐突に泣きだしてしまったときの心の動きを、釈明する義務がある。