空から性的指向が降ってきて、世界は変わった

2017年4月のミュンヒハウゼン騒動と、2018年4月の牧村朝子騒動。これらに挟まれた長い空白のうちに、忘れ去られた巨大な文書があった。

マサキチトセ, ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された”性的指向”と”性的嗜好”の違い。2017年10月、LGBTPZNという用語に直接は言及していないがゆえに、LGBTPZN支持者からはいつしか忘れられた文書である。しかし、「合意」あるいは「同意」がLGTPZNアンチたちのスローガンになる以前は、性的指向と嗜好という同音異義語の組が、LGBTとPZNを隔てる原理であると信じられていた。

マサキチトセの主張は、LGBTPZNに深く関連する部分だけを抜き出せば、性的指向は同性愛者を差別するための中心的な概念であったがゆえに、それを反差別のために意味を反転させる必要があったということだ。

では、性的指向がLGBTに対する差別の中心的な概念であったとき、LGBTとPZNは現在とは逆の立場にあったのだろうか? 例えば、前世紀にLGBTが公然と差別されていたとき、いわゆるロリコンブームや少女買春ツアーのような形で、PZNが公然と許容されていたというような歴史認識は可能だろうか? 先に断っておくと、私はこの記事にいくつかの問いをメモするだけで、結論を語れるようになるのはだいぶ先になりそうだ。

あるいは、LGBTPZNアンチのあいだでも合意か同意か表記が一定しないあの概念について、マサキチトセが性的指向について行ったような広範な検討を加えることは可能だろうか? 明らかに、No Means NoとYes Means Yesという標語に象徴される、一連の議論を参照する必要があるだろう。別の例を挙げれば、わが国のインターネットでは、発達障害者は「合意」のシグナルを理解することができず、自由恋愛から締め出されているのではないかといった議論がなされている。

もし合意あるいは同意と呼ばれるものが成立し得るとしたら、当事者たちはどのようにして、それを決断しているのだろうか? それは選好の問題であり、一例として単純化して言えば、ある女性がある男性とのセックスには同意し、別の男性とのセックスには同意しないとすれば、そこにはどのような決定のプロセスがあるのだろうか? ナンパ術や恋愛工学としても知られるある種の技法を用いて、選好のプロセスの一部をバイパスすることは、実際に効果があるのだろうか? もし効果があるとすれば、それはどこまで許容されるべきだろうか? あるいは、ある女性が、白人男性とはセックスするが、黒人男性とはセックスしないという選好を露骨に繰り返したら、何か倫理的な問題が発生するだろうか? 正規雇用者と非正規雇用者だったら? サッカー部とオタクだったら?

ジェンダー論がガラスの天井を打ち破りつつある現代においても、セックスを論としてやっていくには人類は準備不足であるように思われる。例えば、ポルノ、売春、性犯罪についての倫理的な問題は、十分に整理されていないという印象を持っている。私たちの社会において「正常」とされる人々がどのように恋愛やセックスを行っているかも、十分に解明されていない。ましてや、LGBTあるいはPZNの性、特にジェンダーではなくセックスを解明することは、より困難が大きいと想像される。

あるいは、同齢愛者と異齢愛者の実態、両者の社会的な許容の度合い、ないしは後者に対する差別の存在といった問題は、まだ認知さえされていない段階であろう。年齢は身体的価値と社会的地位の両方に深く関係し、なおかつ、それらの理解は地域や年代によって異なる。

わが国における平均的な異性愛者にとって、恋愛とセックスによって得られる満足は、いよいよ縮小の一途をたどっている。自分自身の性的身体あるいはセックスを肯定的に理解している女性も少なくはないが、平均的な女性にとって、セックスは何かをあきらめることにほかならない。恋愛とセックスによって得られるものは、男性がいかに幼稚で自分勝手であるかを再確認することだけである。一方、男性にとってみれば、デートには生活費を圧倒するほどの出費が必要であり、その間ずっと相手の機嫌をうかがって過ごし、数回のあまり快適とはいえないセックスを得たのち、何の前触れなく捨てられる。出産と育児についてはさらに状況は悪化しており、必要な出費は平均的な共働き家庭ですら困難である。女性たちはそのような困難を最初からあきらめるか、安定かつ高収入な男性を捕まえようと絶望的な努力を重ねるかの選択を迫られている。そして、女性たちには漠然とした孤独感が、男性たちには行き場のない性欲だけが残される。

異性愛者の性ですら、解放されていないどころか、状況は悪くなる一方である。ならば、どのようにして、LGBTやPZNを救うことができるだろうか?

何も分からない。私たちは雰囲気で性をやっている。では、「雰囲気」とは何だろう? 私たちの社会における性的規範だろうか? あるいは、私たちは、「私たちの社会」と呼べるような単独の実体を共有しているのだろうか?

分かるのは、チンコをこすると気持ちいいということだけ。しかし、チンコをこするだけでは射精は起こらない。性的な欲求を満たすためには何らかの精神的な充足が必要であり、それはポルノであったり、恋人であったり、私たちから見れば奇異に思われる何かであったりする。

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投稿者: Hakaba Hitoyo

墓場一夜

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