事実は啓蒙よりも暴力として作用する、少なくともインターネットにおいては

オックスフォード英語辞書の選考によると、2016年の英語圏の流行語大賞はポストトゥルースであった。世界の人々は、真実が失われつつある時代をどのように生きていくべきか、さまざまに思いを巡らせていた。ところで、2018年の人類は、フェイクニュースとの戦いに血道を上げている。

事実が存在しないことに直面する機会は、意外なところにも転がっている。たとえば、密室で行われた性犯罪においては、真実は本人たちにしか知りようがない。そして、インターネットの男性たちにとっては受け入れがたいかもしれないが、そのようなときは、被害者の訴えに依拠して加害者を罰するほかに、有効な手立てはほとんどない。

事実は、それが一つしかないと信じられているがゆえに、それを奪い合う闘争を呼び起こしている。ことによると、その闘争は本来は避けられるものかもしれない。私たちがそれを奪い合うことを止めれば。

事実を見出すには、それなりの資金と人員を動員する必要がある。だから、それらを大規模に動員できる者が、長期的には必ず勝つ。じつのところ、それはあまり民主的ではないし、私たちの社会にとってあまり良いことではないかもしれない。

インターネット (正確にはConsumer Generated Media) が自分自身で事実を生み出すことはめったにない。ほとんどの場合、それは資金と人員を動員できる誰かが採掘して、それがインターネットに持ちこまれたものである。それを手にした者は一方的な殺戮が可能である、反対側の陣営が別の事実を入手するまでは。

科学またはテクノロジーを愛するインターネットの論客たちは、特に、自分たちの知識を敵対陣営への攻撃のために用いすぎていないかどうかと、社会の他のセクションに対して科学もしくはエンジニアリングのような発想を適用しすぎていないかどうか、年に一度くらいは考えてみるとよいだろう。

私たちは、隣人が無知であることを許容すべきかもしれない、少なくともインターネットにおいては。私たちが手にしているのは、理性の光ではなく、人を殺す武器である。

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投稿者: Hakaba Hitoyo

墓場一夜

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