LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではない

運動の本体は暴徒であるべきである、理論家はその支援者に過ぎない、というのが私の意見である。LGBTPZNは原理的に、理論家によって真面目な運動に仕立て上げられることが不可能であるように思われる。では、私たちは、暴徒であることができただろうか? あるいは、その支援者として振る舞うことができていただろうか?

LGBTPZNのうち、特にペドフィリアは、多様な困難に直面している。まず、性徴前の人間と性交することの問題に絞って考えると、相手に性欲がないこと (状況を限定すればこれに論駁することも可能かもしれない)、相手と知識や力に差があること (しかし、ペドフィリアの側が童貞であったり、知的障害者であったりする場合にはどうであろうか?)、などの倫理的な問題があることが分かる。ペドフィリアであること自体が (たとえ内面の空想に限定したとしても) 倫理的に罪であるという風潮も、多くの敵対者たちに共有されている。

児童ポルノを製造・販売・所持することは、わが国では (あるいは、ほとんどすべての先進国で) 違法である。前段落では問題を「性徴前の人間と性交すること」に限定したが、法的な児童とは18歳未満の者を指し、この中には人格、体格、あるいは性体験のうえで成人と遜色ない者が多く含まれている。ペドフィリアに対する社会的な禁忌感は強固であり、性徴後の児童と成人との恋愛ですらしばしば指弾されるけれども、児童と児童との恋愛はむしろ奨励されている。

法と倫理によって徹底的に自分自身を破壊された者が、なおも何らかの倫理や価値観に対して誠実であることは可能だろうか?

LGBTPZNのうちのPは本質的に倫理的な困難を抱えている。かつてはLGBTもそうであった、特にそれが宗教的な禁忌と強く結び付いていた時代には。

だから、LGBTPZNはLGBTPZNの (あるいはPZNの) 権利運動にはなり得ない。そのようなものを夢想したり、あるいは、そのようなものに擬態したりしながら、それの周りで歌ったり踊ったりしている。これは熱狂的な死の舞踏である。

遊戯的な運動には前例がある。というよりも、わが国のシリアスな運動は、浅間山荘を最後に敗北した。それ以降の運動は、革命的非モテ同盟やSEALDsのように、パロディーあるいはコメディーとして振る舞わざるを得ない。

LGBTPZNは遊戯的であることしかできない。そして、それは呼吸や排泄と同じくらい、私たちにとって重要なことである。

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投稿者: Hakaba Hitoyo

墓場一夜